照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

街道をゆくミニミニ版ー瀧坂道は府中から江戸へ向かう街道

世田谷城址公園の横を歩きながら、すぐ側にある豪徳寺の敷地の広さに比べ、城にしてはずいぶんこじんまりしていると感じていた。

世田谷城は、吉良氏によって600年以上前に居館として建てられたが、現在はほんの僅か、空堀や土塁の遺構が残っているのみで、詳しいことはほとんど分かっていないそうだ。その遺構は、今、公園として保存されている。そして、現在豪徳寺が建つ辺りに本丸があったのではないかと推測されているので、実際は、この公園から想像されるよりはずっと規模が大きかったに違いない。

それにしてもなぜここに城をと、不思議な思いはずっと残っていた。そのうえ公園の案内板で、すぐ近くにある世田谷八幡宮は、出城の役目も担っていたと知り、この城がなぜそれほど重要なのかと、更に疑問が重なった。ここからもう少し離れた弦巻や赤堤には、支城と考えられている砦(現在は弦巻神社、六所神社)もあったという。

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古道・瀧坂道の案内板

気になりながらもとんと忘れていたら、この間散歩の折、ひょっこりこのような案内板を見つけた。何かと読んでみれば、"江戸時代初期、甲州街道が整備される以前は、ここが武蔵国の国府が置かれた府中と江戸を結ぶ一番重要な往還(街道)であった"(要約)とあるではないか。そして、吉良氏がここに居館を設けた理由の一つが、交通の便の良さだという。ちなみにこの街道は、瀧坂道という。

また、城近くの道を、鍵の手やS字カーブにしたのは、防衛のためという。北に北沢川、南に烏山川という地の利に加え、更に、城の西と東に社寺を配したとも書かれている。世田谷八幡宮以外の寺なども、計画的に配置されていたことが分かる。それに、二つの川が合流する地点には、多聞寺砦(現在の三宿辺り)という出城も置かれたそうだ。

これで、疑問に思っていたことすべてがすんなり腑に落ちた。つまり交通の要となるこの場所に、地形を活かして城を築くことは、吉良氏にとってかなり重要であったのだ。但しこれは、古道があったことなどすっかり忘れられている現在からでは、見えにくい。

しかしその200年後、"小田原征伐により豊臣氏勢に接収されたが、同戦役後廃止された。"(wikipediaより)という。そして、"江戸城改修に石材が利用された"とのことだ。かつてを偲ぶ手がかりが、空堀や土塁だけというのは何だか寂しい気もするが、それすらも、残されていること自体が珍しいらしい。

ちなみに瀧坂道は現在、梅ヶ丘を過ぎて環七を渡ると、淡島通りとなっている。ついでに渋谷まで歩いみたが、この道が尾根になっていることがよく分かる。これまでにも何度か歩いた道だが、改めて地形を頭に置きながら歩いてみると、見えてくる世界がガラリと変わった。

21世紀に住む私だが、気分はすっかり数百年前の旅人の心持ちだ。『日本の謎は「地形」で解ける 文明・文化篇』(竹村公太郎・PHP文庫・2014)を再読して、自分なりのミニミニ版"街道をゆく"をやってみよう。散歩の新たな楽しみ方が加わった。