照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

何事にも周到だった家康を知り見方が変わる

『日本史の謎は「地形」で解ける 文明・文化篇』(竹村公太郎・PHP文庫・2014年)を読んで以降、徳川家康について見方が変わった。というより、それまではほとんど関心がなく、日本史で習った以上の事は知らなかっただけのことだ。殊に、狸親父的イメージが印象を悪くしていて、業績はおろか人となりを知りたいとも思わなかった。

それが、第4章〈なぜ家康は「利根川」を東に曲げたか〉で、作者の仮説に頷くことしきりで、家康は何と頭の良い人かとすっかり感心してしまった。秀吉による関東への転封という事実上の左遷ながら、"家康は現場を歩き、地形を観察し尽くしていた。"(P・94)とあるように、関東での基盤作りをしっかり考えていたようだ。

家康に感心しながらも、とんと忘れていたところ、『街道をゆく37 本郷界隈』でも、家康は、あらゆる面に於いて配慮怠りなき人であったと、またもや感心させられた。例えば、御三家を構成するにあたっても、"要するに"御三家"は、身代が平等でないながら、長短に特徴を持たせてたがいにうまく組みあわせられていた。"(司馬遼太郎朝日新聞社・2005年・P・217)と、後に禍根を残さぬように十分考えられている。

また、今川氏の人質となっている時に娶った今川一族の出である築山殿と、いわば秀吉から押しつけられた朝日姫(旭姫)だけが正室で、他は皆側室だったが、その選び方にも基準があったようだ。

"少し家康の閨房についてのべると、好色ではなく、子孫を残すという実質性で貫かれていたようで、それに奥が政治力を持つことを忌んだ。
このため、実家が公家や大名といったような女を避け、ほとんどが自分の家臣かそれに準ずる娘だけをえらんだ。そのほうが、政治的に安心であるばかりか、忠誠心も期待できたのである。
もうひとつ好みがある。利発であることだった。"(P・215)

とあるように、まったく何事にも周到だ。但し、"奥が政治力を持つことを忌んだ"といっても、三代将軍家光の乳母だった春日局の権勢は知られている。最初に思い描いたように、後々まで、全てことがうまく運んでいくわけではないが、15代260年の長きに渡る江戸時代も、祖に家康がいたからこそと改めて思う。江戸時代もなかなか興味深い。

"明治という時代は、江戸期の文化を重んじなかった。"(P・207)と、司馬さんはおっしゃっているが、それは明治に限ったことではなく、時代が移るごとに前時代の文化を蔑ろにしてきた結果として、今があるようにも思える。生活者としての観点から見た時代の善し悪しは別にして、時には、じっくりと歴史に向かい合ってみるのも面白い。