照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

やはり人は見た目で判断するしかないかな?

"もし「洗剤意識」なんてのがあったら、「今日も汚い靴下と一緒にされてやだなあ」とか思うのかも"

『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』(村上春樹著・マガジンハウス・2012年)は、珍しくほとんど風も無く、唯一、今週の村上(P・201)が、頬を撫でていったくらいだ。

しかし、洗剤が洗濯機の中に入れられるたび、「当たり」とか「ハズレ」とか思っていたら楽しいな。嫌だと抵抗したところで、まあどっちにしろ、水に流されてしまうだけだけどね。ちなみに洗剤は、どんな洗濯物がお気に入りなのだろう?

ところで、「貧乏そうに見えるのかな」(P・178)に、やはり人は見た目がすべてかなと改めて感じる。

馴染になった鮨屋のご主人からだいぶ経って、最初は勘定を払えるのか心配であったと打ち明けられる。

"そういえば他の店で、席ががらがらなのに、じろじろ全身を見られて、「すみません。今は予約でいっぱいでして」と言われて追い返されたことが何度かあった。うーむ、そうか、そんなにお金がなさそうに見えたんだ。"とようやくその訳に思い至り、

"いちおうまともな一般市民に見える程度には外見に気をつかわなくてはね。"と思う。

ついで、以前泊まった山中にある温泉旅館でも、見栄えのしない部屋に入れられた事を振り返る。その適当に放って置かれ度が気楽でいいと感じられたのだが、翌日急に立派な部屋に通され、見違えるように上等な食事もでてきた。おまけに、先生とはついぞ知らずと、女将に詫びられた。だが、逆に肩が凝ったので、早々に引き上げてきたということだ。

ずっと前にラジオで、秋山ちえ子さんも同様のことをおしゃっていた。登山の帰り旅館に泊まったのだが、布団部屋のようなところに通された。部屋を替えて欲しいと言うと、支払を心配されたという。仲居さんとしては、むしろ気を利かしたつもりだったようだ。

見た目よりは中身重視と胸を張ったところで、相手が自分を判断するには、見た目しかない。まして客商売なら、実質的な損害を考慮して用心せざるを得ない。ある程度はやむを得ないが、この本の女将さんのように、
"しかし、そんなに突然、手のひらを返すように態度を変えられるものなのかな。"

というのも、当人としてはかなり居心地が悪いものだろう。"「たとえあなたが誰であろうと、コジキのまねをすればコジキです」"と、大富豪が貧民に扮して高級レストランを訪れ、正体を明かしても追い返されたというケストナーの小説を引き合いに出して、

"その理屈からいけば、旅館の女将も、「ふん、小説家かなんだか知れないけれど、貧乏そうな格好してれば貧乏なんだから」と割り切って、放っておいてくれるとよかったんですよね。そうすれば僕だって、もっと気楽にぐずぐず幸福でいられたのに。"

と、おっしゃる。でも、女将としたら、作家だからこそ何書かれるかたまったものじゃないと、俄かにおもてなし精神を発揮したのではないか。

まあ、こういうことは難しいですね。
オッと、口調がムラカミ風になってきたのでお終い。