照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

読んだという手応えを感じさせられる小説ー『輝ける闇』を再読して

このところ、自分が若い頃好きだった作家の本を読み返している。開高健の作品では、順番からゆくと『夏の闇』より前に『輝ける闇』なのだが、読んだ当初よく分からなかった作品を、先に読むことにした。結果としては、それでよかった。

これは、新聞社の特派員としてヴェトナム戦争に従軍した体験を元に書かれた作品だが、50年経っても、その主題とするところは、まったく色褪せていない。再読ではあるが、久しぶりに手応えのある小説を読んだという感じだ。

『夏の闇』とはまた違った意味で、この作品には、それまで開高健が見たり聞いたり、読んだり考えたり、感じたりしたことのすべてがある。また、戦争に限らず、物事をどう捉えたらいいのか、考え方のヒントがぎっしり詰まっている。

これまでにも時々、ヴェトナム戦争って一体何だったのだろうと思うことがあったが、この本を読んでいるうちに、ああそうかと腑に落ちることもしばしばだ。

折々にひょんなところから現れる脇役たちが、主人公である(私)と鋭い意見を交わすのだが、その言葉にいちいち頷いたり、考えさせられたりする。そのたびに、若い頃の自分が本当に読み込めていたのかどうか怪しくなってくる。

(私)自身が前線に赴き、この国や人々の実態を知るにつれ、自国の知識人たちへ湧く疑問。前線にいれば否応無しに、塀の上で寝そべっている人ではいられない。弾丸が飛んでくる心配のない遠く離れた地で、正義について口角泡を飛ばしているだけでは見えてこないものが多々ある。

この著者のノンフィクションに言及して、「ただ目の前に見えるものしか見えない記者の目しかもたない第三者」と批判した批評家がいたようだが、かなりの違和感を覚える。現地に赴き、見たものをどう消化して言葉にするかに、記者の目ではない作家としての目があるのではないだろうか。

目の前にどれほど材料があろうと、誰もが上手く料理できるとは限らない。それらの特性を見極めどう料理するかで、こちらに見えてくるものが異なってしまう。それは、観察眼、洞察力に優れた作家にしかできない。例えば一冊の小説からでも、何かを読み解く人もいれば見過ごしてしまう人もいる。

前線で退屈しのぎに読んでいるマーク・トウェインの『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』の終章で、魔法使いが哄笑して言う"「おまえたちは相撲に勝って勝負に負けたのだ!」"に、(私)はこの戦争の結末を思う。

さまざまな国でさまざまな立場から書かれたアメリカ論、そのアジアにおける外交政策論、その軍事政策論、それら名論卓説をいくつも読んだが、一篇の空想小説ほど鋭く(私)をえぐるものは何もなかったと感じ、"さがしもとめていたものがこんなところにあった。ここに何もかもが書かれてあった"(P・140下段)と思う。

前線で作戦に同行し、200人の大隊が17人になって尚も攻撃を受け、
"真っ暗な、熱い鯨の胃から腸へと落ちながら私は大きく毛深い古代の夜をあえぎあえぎ走った。
森は静かだった。"(P・273・上段)
で終わる。凄い小説だなと思う。

(『開高健全作品 小説8』・新潮社・1974年・P・99~273)