方言での朗読が心に響く
先月末のラジオ番組で、奈良岡朋子さんが津軽弁で朗読する太宰治作『雀こ』を聞いた。方言のリズムが耳に心地良くて、いいなぁと思って耳を傾けていた。この番組は、何年か前の再放送ということだが、私が聞くのは初めてであった。
奈良岡朋子さんは、お父様の津軽弁に馴染んでいたので、戦時中に青森に疎開しても、方言に戸惑うことはなかったそうだ。土地の人同様に津軽弁を話される方の朗読だからこそ、心にしっくり響いてきたのかもしれない。
以前、やはりラジオで、永六輔さんの追悼番組だったと思うが、「自分は宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を少しも良いと思ったことがなかった。ソウイフモノニナリタイって、勝手になればと思っていた。」とおっしゃったのを聞いて、かなりびっくりしてしまった。この詩に、そのような反応を示す人がいて、しかも永さんがという驚きであった。
だが続けて、「盛岡出身の長岡輝子さんが、方言でその詩を読むのを聞いた時、涙が溢れ出た。この詩は、地元の言葉で読まれるとこんなに良いんだと初めて感じた」というようなことを言われたのだ。
それ以来、機会があれば何か方言での朗読を聞いてみたいと思っていたが、わざわざ探すこともしなかった。それが偶然、奈良岡朋子さんの朗読を聞いたのであったが、本当に良かった。奈良岡さんご本人もおっしゃっていたが、歌を聞いている感じでもあった。
近頃は、方言を耳にする機会そのものがほとんどないが、やはりその土地の言葉は、耳に優しく入ってくる気がする。
以前、徳島・鳴門の大塚国際美術館に行った折、中庭の横にあるカフェで休んでいた時のことだ。ドア近くのテーブルに座っていたグループの一人が、外へ出ようとドアを開けた。すると、強い風が室内に流れ、その影響でテーブルの上にあったグラスが、風に煽られて下に落ちた。
その途端、カフェの方が、「お怪我ありませんでしたか」と、そのテーブルの方に声を掛けたのだが、そのイントネーションが、とても優しく響いた。そのテーブルの人たちは、グラスを割ったことを随分恐縮していたが、怪我を案ずる声の調子に、だいぶ気持ちも和らいだのではないかと思い、私も何とはなしにホッとした。
方言には味わいがあって良いとはいうものの、実際、生まれ育った土地の言葉を、今の時代、全面的に日常で使い続けるにはなかなか勇気がいるはずだ。にも関わらず、話す人の気持ちも忖度しないで、勝手なことを言う奴だと言われそうだが、せめてその土地に行ったら、土地の言葉に触れたいと思う気持ちはある。