照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

節分で豆まきに使う鬼のお面は可愛いけれど持国天に踏みしだかれる邪鬼は恐い

節分に、豆まきで使う鬼のお面は、ずいぶん親しみやすい。2本のツノがなかったら、顔も身体つきも、むしろ仏を護る四天王のようだ。もっとも、幼な子が夢にうなされるような図柄のお面だと、おまけに付けても、その豆は売れないかもしれない。やはり、可愛らしいお面の方が好まれるだろう。

実際、大人の私ですら、持国天(東大寺戒壇堂)に踏みしだかれる邪鬼(『土門拳全集2 古寺巡礼2 大和篇下』(小学館・H59年・P・16)に、思わず怖いと感じたくらいだ。痩せて頰が削げた顔に、逆立った髪、飛び出たような目、細く尖った耳に、開いた口からのぞく歯は頑丈そうだが、上が1本無い。もともと無いように作られたのか、失くなってしまったのかは分からないが、これが案外、怖さを増す効果を担っている。

邪鬼の顔の上にある靴の持ち主はと、前のページ(P・15)に戻ると、怒りの形相で目を見開き、意志強固そうにずんぐり鎮座する鼻、閉じた口元からも怒りが伝わってくる。これでは、貧相な身体つきの邪鬼などひとたまりもない。

ちなみに、立派な体格は、四天王それぞれに共通している。どなたも迫力ある顔つきだが、三白眼で睨む広目天はなかなか怖い。邪な心など、たちまち見透かされてしまいそうだ。

古い時代の彫刻を目にするたびいつもながら思うことだが、仏師たちは、何を参考にしてそれらを形造ったのだろう。どれもそれぞれに特徴を掴んで刻まれた姿は、遥か時を隔て、現代の私たちを唸らせる。

ところで、邪鬼の怖さは、三月堂の日光・月光菩薩像が和らげてくださる。ここが写真集の良さで、戒壇堂から三月堂まで移動すること無しに、ページを捲るだけで心ゆくまであれこれ眺めていられる。ちょうど昨年の2月、私は三月堂を訪れているのだが、その時のこともくっきりと蘇ってくる。

と同時に、また奈良へ行きたいなあ〜と、写真集にだいぶ刺激されてしまった。東大寺ばかりか、唐招提寺浄瑠璃寺の佇まいがやたら懐かしい。今度行く機会を得たら、さまざまな邪鬼も見てこよう。

時代によって邪鬼の捉え方にどのような変化があるのか 等、知りたくなってきた。それにしても、鬼が愛嬌ある描かれ方をするのはいつ頃からだろう。節分の鬼のお面から、興味がぐんぐん増してくる。