照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

西洋音楽を学んでいた天正遣欧使節の少年たち〜『クアトロ・ラガッツィ』

エヴォラ(ポルトガル)のカテドラルでパイプオルガンを目にした時、日本語の案内板には、確か、日本から派遣された少年使節が「聴いた」とのみあったはずだが、その後ブログ等で、この楽器を演奏したという記述をいくつも見かけ、それは本当だろうかとほとんど疑う思いであった。

 

だいたい、400年以上も前の日本で、西洋の音楽や楽器に触れる機会が果たしてあったのか?ただ見たとか、演奏に耳を傾けたというのなら分かるが、弾いたとなると、いつ、どこで習得したのか、それがずっと気にかかっていた。

 

それが先月、『クアトロ・ラガッツィ 天正遣欧使節と世界帝国 』上・下巻(若桑みどり著・集英社文庫)という本を知り、何か分かるかとの思いもあって読んでみた。

 

著者は、一六世紀のカトリックの東アジアの布教について調査することになり、ヴァチカン秘密古文書館、次いでウルバヌス八世大学付属図書館で、最初はキリシタンの美術について調べていたそうだ。そのうち、天正少年使節についての文書がとても多いことに気づき、それを読んでいるうちに強く引きつけられ、後年、この本を書くに至ったという。

 

しかし、日本の少年使節について書くにも、日本国内の資料は当然ながら、当時の宣教師たちが本国へ送った報告書をはじめとして、各国の研究者が書いた本まで、幅広く丹念に読み込むというのは、相当大変だったろうと想像するだにクラクラしてくる。

 

だがそのおかげでこちらは、信長、秀吉を中心とした当時の国内情勢から、イタリア、ポルトガル、スペイン各国の事情に加え、仏教やキリスト教についても、噛み砕いて教えてもらっているかの如しだ。とりわけ、信長が暗殺された背景への考察には、確かにそうかもと興味を誘われる。

 

そしてところどころに、これは是非とも言っておかずにはいられないとばかりに、力の入った論が展開されるのだが、ふむふむと思いつつも笑ってしまう。

 

なぜ当時の女性たちがキリスト教に魅かれていったのか、仏教との比較において説明してくれる場面では、仏教が当初、女性を罪深い者と決めつけ排除したことに触れ、ひいては、室町時代に書かれた、読むにたえないという文章を引き合いに出して、相当お怒りなのだ。

 

"「・・・、女人に賢人なし、胸に乳ありて心に智なきこと、げにげに女人なり・・・阿弥陀の本願にすがってこの疎ましき女身を捨ておわしまべくそうろう」
「胸に乳ありて心に智なき」という文句には思わず巨乳タレントを思い出して笑ってしまうが、その乳がなかったらおまえはどうやって育ったのだと言いたくもなる。雌牛にも申しわけがない。それでみんなが生きているのだ。"(P・265~6)

 

"おまえは・・・"のくだりに、そうだそうだと大きく頷く私も、"雌牛にも申しわけがない"で、アレレレッと、ズッコケてしまう。それなら、雌山羊も入れなければ片手落ちではないかと、余計なことまで頭に浮かんできてしまう。

 

だが、笑ってもいられない。著者が言うように、
"なんら自分の罪ではなく、女に生まれただけのために最初から地獄に行くという話にはどうしても納得できない。"(P・270~1)
に、まったく同感だ。

 

結局、こういった女性観が後々まで尾を引いて、だいぶ改まってきたとはいえ、今日に至っているのではないかと思わざるを得ない。

 

しかし、これは何も仏教に限ったことではない。

"ただし、ここで断っておきたいのは、キリスト教も立派な女性蔑視の宗教であったということである。"(P・271)ということで、それについても著者独自の見解が示される。

 

ところで、イエズス会総長直々の任命により日本にやってきた巡察師ヴァリニャーノの、日本人を見る目の確かさには感心させられるばかりだ。ただ、「日本人の長所について」の一部などは、日本人の本音と建前の使い分けに惑わされたかなと思わないでもない。

 

"「・・(日本人は)いっさいの悪口をきらうので、他人の生活については語らないし、自分の主君や領主に対し不平を抱かず、天候とかその他のことを語り、訪問した相手を喜ばせ、満足させるようなこと以外にはふれない。・・"(P・163~4)

 

これは一見長所のようだが、実のところは、うっかり本心を漏らして要らぬ詮索を招いては大変と、当たり障りのない話題に終始して用心したのではないか。しかし、"天候とかその他のことを語り"には、当時からだったのかと可笑しくなる。

 

ちなみに彼こそが、4人の少年たちを使節としてローマに連れて行くことを思いついた人物だ。日本での布教をより成功させるため、ヴァリニャーノは、まず各教会に信者の子供のための教会学校を作り、その上に、将来のエリートの教育のために、関西と、北九州と、豊後の三地区にセミナリオを作ったそうだ。派遣の裏には、それらを維持、推進するための資金集めという事情もあったようだ。

 

1581年の年報では、有馬のセミナリオで学ぶ少年たちがいかに優れているかを報告しているのだが、そこに、


"「・・・彼らはオルガンで歌うこと、クラヴォを弾くことを学び、すでに相当なる合唱隊があって易々と正式にミサを歌うことができる」"(P・297)とある。

 

また、

"天正九年(1581)信長が突然安土の住院を訪れたとき、その最上階の三階にあったセミナリオを見学して、そこに備えつけてあったクラヴォとヴィオラを生徒に弾かせて、それを非常に喜んんだことが年報に書かれている。"(P・297)そうだ。

 

ここで、私の疑問があっさり解決してしまった。クラヴォというのは、小さなピアノのようなものというから、同じような楽器を、少年使節の一人が演奏したとしても不思議ではない。

 

但し、この本には、ヨーロッパに渡った少年たちが腕前を披露したかどうかの記述はない。でも、かなり音楽に親しんでいたようなので、多分弾けただろうとは推測できる。それさえ分かれば、実際はどうであったかなど問題ではなくなった。


ちなみに、信長の前でクラヴォを弾いた少年・伊東ゼロニモ祐勝(母は大友宗麟の姪)が、使節の筆頭になるはずだったという。だが、使節の派遣が急に決まったため、安土から彼を呼び寄せる時間がなく、代わりに、有馬のセミナリオで学んでいた父方の従兄弟である伊東マンショに決まったそうだ。

 

この少年使節を迎えたヨーロッパでの熱狂ぶりは、以前(7/18付け)書いた通りだ。しかしこれは、ヴァリニャーノと従者の黒人を見た当時の日本の民衆及び信長たちにも当てはまるように思える。つまり、自分たちと異質の者への好奇心が、熱狂を呼び起す一因ともなったのではないだろうか。

 

各資料の信憑性をも考慮しつつ、まるで謎解きのような筆の進め方にグイグイ引き込まれ、本当に面白く読み終えた。