照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

縄文時代から人は何をどのように食べてきたか〜『食の考古学』が興味深い

題名が気になりたまたま手に取った『食の考古学』(佐原真著・東京大学出版会・1996年)が、予想以上に面白かった。第一章(豚・鶏・茸・野菜)から、第二章(米と塩)、第三章(煮るか蒸すか)、第四章(肉食と生食)までの、縄文時代から以降、人々が何をどのように食べていたかはまさに気になるところだが、それ以後の章がさらに興味を惹かれる。

 

それは、第五章(箸と茶碗)、第六章(食とからだ)、第七章(犬・氷・ゴミ)、第八章(最後の始末)*これはトイレ考、となっている。

 

遺跡から出土した様々な物を、時代時代の古い文献と照らし合わせつつ、確実なこととしていいかどうか、丁寧に追ってゆく作業はまったく根気仕事だ。殊に、トイレ跡と思しき場所の調査などは、

 

“一九九〇年、九州でトイレの発見があった。現状では、八世紀半ば、すなわち確実なところで日本最古の便所である。”(P・206)

 

ということだが、ひときわ黒ずんだその辺りの土を掘り起こし、かつてお腹を通り過ぎた内容物等を項目別に仕分けするなんて、千年以上前の遺物とはいえちょっと大変だ。(*但し、本が出版された1996年当時のことだ)

 

考古学の場合、状況から判断してきっとそうに違いないと思える事でも、出土品が無ければ推測で決めつけるわけにはいかない。そのため、最終的にトイレと認めるには、土の成分測定やら何やら確実な証拠が必要となる。ちなみに、“便所には特定のコレステロールが形成される”そうで、“大昔のトイレの認定にきわめて有効”な分析方法があるという。

 

また、落とし紙のないこの時代は、トイレで、チュウ木というヘラを使用していたようだが、それらと共に、“イエバエの蛹の抜け殻”や種子なども見つかっているそうだ。そして、“これらの種子の大半を占めるのは、ウリ、アケビの類、ブドウ属とアキグミだった。”ということだが、リンゴもあったということで、結局、この穴の中からは、“九科一二種を見出している。”という。

 

こうしてみると、やはりトイレの跡って、物凄く大事な場所だ。厠の名の由来も、今でいうところの水洗と同じで、下を水が流れるようにしていたと聞けば、それで「カワヤ」かと即座に納得する。

 

また箸の出現と普及についても、“七世紀から八世紀終わりにかけての藤原宮の役所で働いていた下級役人たちは、ほとんど箸を用いることなく、まだ、手づかみで食べていた。”(P・136)ということで、人々の間に箸が広まったのが、私が漠然と考えていたよりずっと後ということにやや驚いた。“魏志倭人伝の表現を借りれば、手食だった”という。

 

そして、“十六世紀のフランスでは、まだ手づかみで食べており、モンテーニュは早喰いだったため、しょっちゅう舌や指を噛んだ、という話である。藤原宮の役人たちの中にも、早喰いで指を噛む男たちがいたのではないか。”と、その想像による描写(P・136~7)が、かつて私たち日本人が、ナイフとフォークを使い始めた頃を想起させて愉快だ。

 

“・・・唐の国ではその昔、手づかみで食べたので、人差し指を食指と呼ぶのだそうだ。そういや、食指が動く、というじゃないか。うまいもの見りゃ指が動くのヨ。これからは二本棒が動くのかヨ・・・などと家族にこぼす男がいたのではないか。”と、この最後の部分には、まるで落語みたいだと笑ってしまった。考古学者である著者は、ユーモアのセンスもお持ちなのだ。

 

だが、“しかし、中には、二本棒など使いよって、と新式の食べ方を軽蔑し、古来の法にのっとって手食をまもる人びともいたことだろう。‘と、想像は更にその時代の庶民へと続く。だがその頑固者も、”八世紀末以来、平安京では、庶民の間にも箸は普及していたのだろう。こうなると、手食派は異端視され、箸を使うことも知らないと、疎外されることになる。”、そしてこれ以後、“箸にまつわる礼儀も次第に生まれていったことだろう。”には、大きく頷かされる。

 

“この書物は、味の素食の文化センターの『VESTA』誌に書いたものをはじめとして、食や食器について今まで書いてきたものをまとめたものです。”と、まえがきにあるように一般の人向けなので、考古学に日頃から馴染みのない者が読んでも楽しめるよう工夫が凝らされていて、なるほどと納得しながらどんどんページを繰っていける。