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照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

ドゥオーモからサン・マルコ寺院へ

ドゥオーモのクーポラへ登ろうと、朝一番に出かける。列に並んでいる間に読もうと、和辻哲郎著『イタリア古寺巡礼』をバッグに入れた。いざ取り出すと『風土』であった。自分の粗忽ぶりが嫌になる。そこへ丁度、日本人カップルがやってきて私の後ろについた。三人でのおしゃべりタイムとなった。

 

お二人は関西から来たという。奥様がとりわけローマ好きで度々訪れているとの事だ。フィレンツェは京都に似ていると、ご主人が言う。私は奈良の雰囲気を感じたが、黙っていた。本を間違えて持ってきた事が残念で、つい口に出してしまった。和辻と言いかけただけで、題名を言うのでちょっと嬉しくなる。話が合いそうだ。

 

クーポラへの階段はきつかった。ラストが特に辛く、上に上がってベンチに座ると暫くは動けなくなった。だが、登っただけの甲斐はあった。市内が一望できるほどの高いところにいるのは、晴れ晴れとして気持がいい。道幅が狭いうえに溢れる観光客で、地上はやや息苦しかった。

 

次は、サン・マルコ美術館へ向かった。ひとたび修道院の中に入ると、敬虔な祈りの世界への扉が開いたような気がしてくる。階段正面にある、フラ・アンジェリコ描く『受胎告知』のシンプルで穏やかな雰囲気の絵に見惚れる。大天使ガブリエルの初々しさとマリアの優しい眼差し。僧坊に描かれた数々のフラ・アンジェリコの絵にも、同様な思いを抱いた。これらの絵を日々目にしていた修道僧たちは、どのように感じていたのであろうか。

 

ふと、和辻哲郎『古寺巡礼』の一節が思い出された。アジャンター壁画の蠱惑的に描かれた菩薩に触れて、次のように言う。

"ーこのような画がどうして仏徒の礼拝堂や住居などの壁に画かれなくてはならなかったのか・・・何ゆえに日夜このような画に親しまなくてはならなかったのか" 注1

 

清らかさや慈愛を表そうとする努力がない、煩悩が更に深まるような画とは、一体どのようなものであるのか。和辻が見たのは壁画の模写であるが、画僧であるフラ・アンジェリコの絵とは対極にあるだろうその壁画にも興味を覚える。僧か否かに関わらず男性が描く女性の絵には、どのような思いが投影されているのだろう。聖母マリアの描かれ方もさまざまだ。フラ・アンジェリコの絵から連想はひろがる。

 

注1:和辻哲郎『古寺巡礼』岩波書店・P・19〜20要約