照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

家庭貯蓄率低下に思う その3

家庭貯蓄率低下を問題にする一方で、お金を抱え込むと思われる老人世代から何とか吐き出させようと、子世代との抱き合わせであれこれ政策を打ち出す。だが不安がある間は無理だろう。文無しになった自分を見てくれる人はいないと、誰しも考える。それに、もし貯蓄が無ければ、子世代に負担がかかるだけではないだろうか。

最初の例では、たまたま費用が尽きる頃にお母様が亡くなられたが、寿命ばかりは計れない。その方にしても、もしお母様が長生きされて、弟さんとそれぞれ月15万ずつ負担し続けていたら、ご自分の生活はどうなったか。貯蓄を取り崩すどころか、貯蓄など無理の世界だろう。

貯蓄というと、老人と若者の世代間格差としてクローズアップされるが、私の感覚からは程遠い。私の周りには、飛び抜けてお金持ちの老人もいなければ、一生懸命働いても悲惨な暮らししか出来ない若者もいない。むしろ生活が苦しい老人の方が多い。事実生活保護を受給する高齢者が増えているという実態も、報道されいてる。個で捉えず世代で一括りにして判断するから、いろいろな数字が平均になって出てくるのだろう。だが統計を基に、ステレオタイプの世代像を描きたくはない。個々の問題は何であるのか見極めたうえで、いろいろ考えたい。

また受給年金の不公平さも、世代間格差の代表のごとくしばしば話題になる。だが、国民年金第三号被保険者の制度についても、もっと取り上げられてもいいのではないだろうか。かつて完全自動物価スライド制度が凍結された時期があって、それが確かに年金貰い過ぎの一因ともなっている。その背景には政治的な思惑があったようだが、この制度にはどのような裏があるのだろう。こちらの方が、はるかに不公平な気がする。

それにしても、どのような場面であろうと自分に関わりがでた途端、皆欲の突っ張り合いになる。沈みかけている制度から、自分だけは僅かでも何か取ろうと必死だ。

いろいろな事を見聞きするにつれ、これからは制度のお世話になるなど、もはや当てに出来ない時代だと感じる。場合によっては、医者にだってかかれないかもしれない。あらゆる事を想定して、自分の身は自分で防衛するしかないと、覚悟を決めて生きることだ。そのためにはどうするか、各自がしっかり自分の頭で考えねばならない。少なくとも、制度を政治家の駆け引きにさせてはいけない。一時の美味しさの後には、長い苦みが残る。それにしても、国って何だろう。

家庭貯蓄率低下という記事から、とりとめもなく想いは様々に広がる。