照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

食を考える その2

卵を産まなくなった鶏を絞めて食べるという時代ならいざしらず、現代の日本の食卓から食が生命という意識は生まれにくい。放し飼いの鶏があちこちに卵を産んでいた頃とは違って、今や養鶏場は、卵製造工場の趣がある。かつて卵は、まさに生命そのものとして病を養う人に供された。卵焼きは、お弁当の花形でもあった。今や貴重品扱いされる卵は僅かだ。だがそこには、味や金額への有難さはあっても、生命への思いはあるだろうか。

野菜や果物は生命そのものなのだが、植物だからか、食べる時の実感としては捉えにくい。まして加工によって、例えば小麦が粉に、粉が麺になるというように、食べ物の形が変化するにつれ、生命という意識は遠のいてゆく。肉にしても、スライスされた物ばかり目にしていれば同様で、調理すれば更に見えにくい。滅多に目にする機会はないが、意識するのは、大きな姿が塊のまま吊り下げられている時ぐらいだ。それすら、食卓に着く頃には忘れてしまう。調理しても形が見えている魚だって、同じ事だ。もはや食材としての意識しか持てない。

食事でさえそうなのだから、菓子類のような製品になればなお更だ。会社での昼食時、何で摂ってもカロリーは同じだからと、こってり甘い菓子パンやお菓子を食事として済ませる同僚たちに複雑な思いがする。食に関しては、皆多少の意識もあるようだが、お菓子の誘惑には勝てないでいる。それは、食べるという根本に、誰かの生命を頂いて自分の生命を繋いでゆくという意識が、欠如しているからだと思う。生命を維持するためには、カロリーで帳尻を合わせるのではなく、自分の血や肉となる物を摂る事が必須だ。

斯く言う私も、今でこそ甘い物を食べないが、以前は大好きであった。何もしたくない休みの日、菓子パンで食事を済ませた事もあった。だが私の場合、その夜からなぜか喉が痛くなり風邪へと移行するようになった。初めは気のせいかと思っていたが、二度三度続くうちに、これは食事のせいだとはっきり自覚した。それからは甘い物をデザートとして食べるだけで、メインにする事はなかった。

そのうちに、甘い物が食べたくなるのは、単に習慣化しているだけかもしれないと思い止めてみた。案外簡単だった。いつしかお菓子の甘い香りにも、魅力を感じなくなった。稀に口に入れると、製品の質が良く分るようになった。といっても初めの一口だけで、食べているうちには慣れてしまう。甘い物から遠ざかった頃から、より食への関心が増した。それでも、食は生命という意識には程遠かった。
その3に続く