照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

子どもを邪魔者扱いする社会に未来はない

私が通勤で利用する電車は、赤や緑に青にオレンジとなかなかにカラフルで、幼な子の人気を集めている。小さな無人駅のプラットホームには、次の電車の色を当てようと、線路の先を覗き込む可愛い姿がある。「つぎのでんしゃ、みどりだといいな」と親を見上げながら顔を輝かせる幼ない子に、子はまさに希望であり、未来そのものと思えてくる。

駅の近くにはまた、川を暗渠にして整備された遊歩道がある。自転車や車などに注意を払う必要もなく、親子連れが、のんびり歩いている。子は、花壇に溢れる春の色に歓声を上げながら、いちいち自分の手で確かめている。少し進んでは、立ち止まったり、しゃがんだりと、幼ない人の歩みはゆったりペースだ。


遊歩道では、さまざまな年代の人々が楽しげに行き交う。犬も猫もいて、カラスも小鳥たちの声も聞こえる。陽射しの中をうらうら歩きながら、幸福な気分になってくる。今はウォーターフロントのタワーマンションに住むのが流行りのようだけれど、子どもを育てるには、やはりこのような所がいいとしみじみ思う

私が幼な子を連れ歩いた日々はとうの昔だけど、ちょっぴりノスタルジアに浸る。自由に木登りなどさせたくて、今の住まいに近い公園まで、車でわざわざやって来たのを思い出す。私が今この地に住んでいるのは全くの偶然だが、子どもたちが幼ない頃、このような環境にいられたら良かったのにと、今更ながら思う。

当時住んでいた辺りにも広い公園はあったけれど、自由度は低く、木々もだいぶ切られてしまった。大雪の日にそり遊びさせた小高い丘も、それから程なく平地になった。子どもたちが大好きな秘密基地など、見つけようもないほど、どこもかしこも明るく、大人しい散歩路に変わってしまった。私は当時、かなり残念に思ったものだ。せめて一角に、プレーパークのような場所が欲しかった。

また昨今は、保育園が、自宅近くに出来る事に猛反対する人々もいる。将来実る果実はご相伴に与りたいが、育つ過程の一切はごめんだと言っているようで、その矛盾に心が沈む。それでなくても所構わず、ちょっとしたことではしゃいだり、泣いたりする子に、親はどれほど肩身の狭い思いをしていることか。保育園にいる時だけでも、伸び伸び遊ばせてやりたいと思うはずだ。それなのに自分が迷惑と思うことは、訴訟してまで排除しようとする。これでは、国を挙げて少子化対策にどれ程知恵を絞ろうが、上手くいくはずもない。

現在からこの国の未来を考えると、どうやっても歪な世界しか見えてこない。全く暗澹としてくるが、どうしたらいいものか。私に浮かぶたったひとつのアイディアは、将来的な果実は諦めて、自分たちであらゆることを賄おうとの覚悟を決めることだ。手を掛けずに果実だけを得たいなんて幻想は、さっさと捨てるべきだ。その覚悟が無いなら、子を社会の宝と受け入れて大切にすることだ。どちらを選ぶか決めるのは自分で、その結果を引き受けるのもまた自分だ。但し、子どもを邪魔者扱いする社会に未来はない。