照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

団子の串刺し描法って?

"団子の串刺し描法"?ユニークな表現に、セザンヌの〈聖アントワーヌの誘惑〉を見返しながら、うまいことを言うと可笑しくなる。確かに、そこに登場する女性たちは、お団子をくっつけたようにも、コルネと呼ばれるパンのようにも見える。

また、セザンヌの〈5人の水浴の女たち〉を、ルノワールが描いた〈浴女たち〉と比べて、"ルノワールを見たあとでは、材木か何かのように見えてきはしまいか"(『セザンヌは何を描いたか』吉田秀和白水社、1988年・P・9)とセザンヌの水浴に描かれている女性たちを評するが、これもなるほどと思う。

セザンヌは、女性、男性それぞれの「水浴」図を何枚も描いている。初期からの画風の変遷について記述している本は多いが、このような視点からセザンヌにとっての絵を読み解くのも面白いと思った。

なぜ、このような描き方をしたのだろうと、自分の関心をひいてやまないセザンヌの絵の前で、著者の吉田秀和さんが、考えに耽っている様子が見えるようだ。かつて、NHKFMで音楽の解説をされていた頃の、「吉田秀和」とぶっきらぼうにあいさつする声も蘇る。

また、

"ゴッホが「セザンヌの絵には、ときどき驚くほどみごとな書き方と理解に苦しむ下手糞な筆遣いがみられるが、あれはエクスを吹き荒れるシロッコのために画架がやたらゆれるためではないか」といったという、笑うに笑えないエピソードが残っている。"(P・64)と紹介しているが、これもとても可笑しい。

セザンヌさん、あの目眩のするような絵を描いたゴッホさんに、そんなこと言われちゃいましたよと、私も、セザンヌの絵を見ながらふと呟いてみたくなる。"下手くそな筆遣い"に、アレレレ、ゴッホさんそんなことまで言っちゃっていいのという感じだ。

セザンヌ論は、セザンヌ好きの数だけあるのかなと思う。絵を見るって、その画家の絵が好きになるって、まさに自分なりの画家像を創り上げることだと思う。誰の意見にも煩わされず、自分だけの見方でいいんだと心強く感じさせられる本である。

それにしても、"団子の刺し刺し描法"なんて、日本人ならではの発想だ。小難しく考えずに、絵と対話する感覚で向き合うと、絵を見るのがグンと楽しくなる。