照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

バラ?の花束とおじいさんー空想が止まらない

金曜日の朝、通りの反対側を歩いていた老人に目が止まったのは、手にしている花束のためだった。白い包装紙の中に、赤色が見えた。「バラ?」まさかと思って、すれ違いざまに確かめると、鶏頭であった。近づくと、赤に混じってオレンジ色もある。もしかして紅花と思ったが、違った。紅花は、70代半ばとも見える男性が選ぶ確率は、バラよりも低そうだ。

だいたいが、年代に関わらず花の名前を知っている男性は少ない。仕事、もしくは園芸を趣味とする人を別にすると、間違わずに言えるのは桜ぐらいのものだろう。更に言えば、童謡で歌われるチューリップだって、男性がきちんと指させるかはかなり疑わしい。

最近は男女を問わず、仏事を除いて花束を抱えている人を目にすることさえ珍しい。まれに、スーパーで仏花を選んでいる人を見るくらいだ。それが、老人とバラの花束という感違いを発端に、いろいろと空想が膨らんでしまう。

もしバラだったら、そこからどんなストーリーが紡ぎだされるだろうか。ビシッと決めたスーツで颯爽と歩く人が抱えるバラなら、まさにステレオタイプのお話の始まりだ。だが、白地に細かな柄入りシャツにグレーのズボンといった、ごく普通のどこにでもいそうな小柄な老人だ。ただ、花束を手にしているだけあって、黒の革靴を履いている。

お見舞いにしてはまだ9時前と早過ぎるし、その辺りに入院施設を伴った病院はない。それにしても、なぜ鶏頭なのだろう。渡す相手が誰であれ、ちょっと意表をつく選択だ。自宅の庭に咲いていたのかとも思ったが、白い包装紙の上には、更にパラフィン紙が重ねられていたので、どこかで購入したものだ。

ふと、お盆かなと思い至った。少し歩けば、方向違いに幾つかお寺がある。お盆には一日早いが、墓参に来たのかもしれない。でも、鶏頭?って、やはりユニークだ。むしろ、紅花にしてくれたら良かったのにと、何の関係もない私は思う。

紅花を墓前に供え、在りし日のおばあさんに語りかけるなんて、ちょっとロマンチックだ。かつて、若く貧しかった頃、妻の誕生日に口紅を贈ったおじいさんが、今は紅花を捧げる。側目には、しょぼしょぼ歩くおじいさんと映っても、内側には、壮大なドラマの残り火がチロチロと燃え続けているのかもしれない。

でも、この話は成立しないな。だって鶏頭だもの。鶏頭から、どんな話を紡ぎ出せというのか。

(そんなのどっちだっていいよ。あまりの暑さに白昼夢かいな)と、呆れられる前に退散退散。逃げるが勝ちだ。