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照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

天才赤塚不二夫の背景ー『これでいいのだ』

『これでいいのだ 赤塚不二夫自叙伝 』(赤塚不二夫著・文春文庫・2008年)を読んでいると、日本中が貧しい時代、子どもたちは子どもたちなりに、まことに子どもらしく逞しく生きていた様子が浮かび上がってくる。

籐七・リヨというご両親のキャラクターが、人としてとても魅力的だ。実際、家庭では怖いオヤジさんであり、また、イタズラ小僧の息子を手早く殴ってくるかあちゃんだが、お二人共によその人に好かれ、その思いやり溢れる接し方が、ひいては家族を救うことにもなっている。同時に、お二人が子等を思う心根にホロリとなる。

かあちゃんの手先となる弟が、これまた可愛い。悪ガキ共との遊びから帰ってきて、そっと家の様子を窺っているフジオ少年に、「かあちゃんがいいものくれるって言ってるよ」、と伝言を持ってくる。作略とは疑わず、喜んで風呂焚きをしているかあちゃんの側まで行くと、後ろも見ずにいきなりマキでカッキーンだ。

でも、夫の安否もわからないまま、3人の子を育てるため早朝から懸命に働くかあちゃん。弟妹を起こさないように、ソッとフジオ少年にだけ行ってくるよと声をかけて出かけてゆく姿に、自分にも長男としての意識が芽生える。

私よりやや上の世代で、長子に生まれついた人たちは、少なからずこのような感じだっと思う。中学を卒業すると働きに出て、弟妹の教育費の足しにと実家に仕送りしてくる兄や姉の話は、同級生から聞いたことがある。

フジオ少年の場合は、またそういった話ともちょっと違うが、世の中全体が生きるに必死だった頃が、ページのあちこちから滲み出てくる。現代を享受している自分からすれば、その時代が良いとか懐かしいなどとは到底思えないが、貧しい暮らしの中にのぞく、心の豊かさについては深く考えさせられる。

そして、赤塚不二夫は天才だと改めて思う。ひみつのアッコちゃんよりは、イヤミやチビ太が懐かしい。そのチビ太にモデルがいて、しかもそれが遊び仲間の3歳の子ってびっくりだ。

皆で火事見物に行った帰り道、疲れて歩けなくなったその子を、代わる代わるおんぶする話がある。行きは、早く歩けと小突かれ、着いたら、お前が遅すぎるから消えてしまったじゃないかとまた小突かれる。でも、小学生たちが交代で背負いながら、来た道を戻ってゆく姿を想像すると、ちょっとホロッとする。

ところで、息子の手助けになればと、夜中に一生懸命ストーリーを書いていたというかあちゃんのエピソードにも、ホロリとなる。他にも、心臓が止まり、医師から死を告げられたかあちゃんの耳元で、「かあちゃん」と思い切り大きな声で呼びかけると、再び心臓が動き出したというのも泣かせる。

フジオが呼んでいるのだから今逝くわけにはいかないと、一端は消えた灯を、ほんの数日ではあるが、意志の力で点したかのようだ。母親というのは、子のために全身全霊で生きていると実感させられる話ではないか。マザコンと言われようが、フジオ少年がかあちゃんを大好きな気持ちがよく分かる。

この本には、赤塚不二夫描く漫画のキャラクターそれぞれの素が、ぎっしり詰まっている。読後感の良い本だ。