照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

年の瀬なのに実感が湧かないなり

もう少しで今年も終わるというのに、なんだか実感が湧かない。日本で新年を迎えるのは、5年ぶりだからなのか。もっとも日本にいたところで、お餅にもお節料理にも縁がなく、お正月もごく普通の日常食で過ごしていた。

自分の家族を持つ前も、持ってからも、お正月を東京で過ごすことはほとんどなかった。子どもたちが小学生の頃までは、年末年始はスキー場で過ごしていたので、お正月の支度はしなかった。大掃除を済ませた後は旅支度にかかり、冷蔵庫は空にするのが常であった。

今週始め、スーパーへ行ったら、棚には、普段見かけないようなちょっと高級なお正月用の食材がぎっしりであった。店内放送からは、「有頭海老は今がお買い得ですよ」とのアナウンスが流れている。

皆さん、既にせっせと、お正月のご馳走プランに沿って買い物されているのかと思うと、いつもと変わらぬ品々をカゴに入れている自分とは、別の世界の住人の感すら覚える。だからといって、何ということもない。自分とは違うだけのことで、侘しさも寂しさも感じない。

そういえば、かつて友人が、元旦は家から出ないと言ったことがある。映画の話をしている最中であった。一日は映画の日だから、はしごするといいねという私に、元旦に一人で映画館にいるのは、寂しい人と思われそうで嫌だからと彼女は言う。

私は、そのように考える人がいること自体に、少しびっくりした。当時私は、彼女と違って一人暮らしではなかったが、元旦がどういう日かということなど念頭になく、映画が安く観られるということの方が魅力的であった。だから、その日に一人で過ごすのは寂しいとか、きっと寂しい人に違いないなんてことは、思いもつかなかった。

子どもたちが成長するにつれ、親と行動を共にしなくなると、クリスマスとか元旦とかお構いなしで、休みを自分だけのために使えるのは嬉しかった。

それから20年以上経って私の暮らしも変わったが、その当時の思いは今も変わらない。だいたい子どもの頃から、家族の中にいても、本を読んだりして一人で過ごすのが好きだったくらいだ。お正月に特に感慨はない。むしろ、餅米の類を好まなかった私にとって、三ヶ日お餅を食べるのは苦痛であった。

今は嫌いではないが、食べたいとは思わないので、ここ数年お餅は口にしていない。我ながら、まったく季節感の欠如した奴と思うが、こんな調子で長らく生きてきたのだから、今更変える気もない。

だから、大晦日も迫り来るというのに、実感が湧かないと気楽なことを言っていられるのかもしれない。まあ、こんな人がいてもいいだろう。人は人、自分は自分なのだ。と、愚にもつかないことをつらつら考えた次第なり。