照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

未知の世界への扉が開かれる〜『謎の独立国家ソマリランド』と『恋するソマリア』

(これは目から鱗がバッサバッサだわ)と、『謎の独立国家ソマリランド』(高野秀行著・集英社文庫・2017年)を読み終えた直後はただ驚嘆していたけれど、よく考えればそれ以前の問題であった。目から鱗どころか、だいたいが何も見てもいなかったのだ。ソマリアと聞けば、反射的に海賊という言葉が浮かぶくらいで、それもニュースで報じられた当座の一時的な関心であった。

 

でも、”「謎」や「未知」が三度の飯より好きな“著者は、『国マニア』(吉田一郎著)という本でソマリランドを知り、”「独自に内戦を終結後、複数政党制による民主化に移行。普通選挙により大統領選挙を行った民主主義国家である」“(P・15)という記述に、“ライオンやトラが咆哮する真ん中で、ウサギが独自の仲良し国家を作っているみたいな絵が浮かび、そのあまりの非現実さに笑ってしまった“(P・16)が、実際はどうなのか俄然興味が湧く。

 

そこからいろいろと調べ、日本にいるソマリランド人(城西国際大学のサマター教授)と何と出発の当日に10分ほど会うことができる。教授から、信頼できる人として大統領を紹介してもらうも、メールアドレスも電話番号も知らないまま現地に赴く。2009年の春のことだ。

 

と、話は、まったく雲をつかむが如く始まるのだが、そこからが本当に恐れ入ってしまう。ソマリランドばかりか、海賊国家プントランドと戦国国家南部ソマリア他、自称国家の名乗りをあげている国まで、それらの経緯と、その元となっている氏族との関連に至るまで、読む者に分かりやすく示してくれる。

 

氏族に関しては、分家から分分分分分分分家と、いったいどこまで分かれているのか、その複雑さに読者が投げ出しそうになるのを見越して、日本で言えば平氏とか源氏、あるいは藤原氏や北条氏等、馴染みのある武将に置き代えたりと、工夫して説明してくれる。そして、そのような氏族社会の事情を一切考慮することなく、一方的に、自分たちのやり方が最上と信じて介入する国際機関への疑問。

 

著者は、国際社会が、ソマリランドを独立国家もしくは「安全な場所」として認めることが、旧ソマリア圏内を含むソマリ社会全体を支援する最良の方法と説く。”戦争を起こしたり、治安が乱れている場所にせっせとカネを落とす行為は、暴力と無秩序を促進する方向にしか進まない。“(P・554)と、身体を張った取材から見えてきた解決案を出している。

 

また、可哀想な難民という同情を煽るように作り上げられたイメージと 、自分が目にした難民キャンプで暮らす人々とのギャップに戸惑う。そして、ソマリアのホテルでばったり会った日本人のフリーカメラマン瀧野恵太さんから見せてもらった写真に、

 

”一通り見ながら私は、「やっぱりな・・・」と思った。みんな、笑顔だ。“(P・394)と、著者は、ケニアの難民キャンプをはじめいくつかのキャンプを回って抱いた、“「別に悲惨ではない」”という思いを再確認するに至る。“何よりイメージと違うのは、笑顔の人が多いということだ。”

 

ソマリ人は写真を撮られるのを嫌う人が多く、まして笑顔の女性を撮るのは難しいそうだが、”難民キャンプでは話が別である。カメラを向けると、みんな嫌がる様子もなく、にこにこと微笑む。“(P・395)そうだ。


それを筆者は、
”彼らは戦乱や飢餓から必死の思いで逃れてきた。・・・やっとたどりついた「安全地帯」で、・・・私たちのようにカメラを向ける外国人は「自分たちを助けてくれる人」と無意識に認識するのだろう。だから、警戒心もなく、むしろ仲良くしたいという意思表示で微笑むのだろう。
これが現場のリアリティである。“(P・397)
と分析する。

 

それにしても、外務省情報では、警戒レベルがシリア並みという最悪の地を、護衛の兵士や通訳や案内のガイドを雇って(しかも高額)回る著者には、いくら秘境好きと言っても程があるだろうと、ただびっくりするだけだ。でもそのおかげで、実態がかなりくっきり見えてくる。


しかし、国が無くなって通貨が安定するとか、民主的になるとか、ソマリランドについて知るにつれ、いったい国家とは何なのかと考えさせられる。

 

しかも、国際的に認められていないソマリランドが平和で、国連やEU、アメリカ、アラブ、アフリカ諸国が支持する暫定政権が置かれている南部ソマリアは、常時緊張状態が続き銃声が絶え間ない。あまりにも危険なため、著者は、首都モガディショで(2009年当時)は、一人でホテルから出ることも許されない。これにもまた、再び、国家って何となる。


ただ、ハルゲイサ(ソマリランド)とモガディショ(南部ソマリア)に住む人々の気質はだいぶ異なる。モガディショは、かつて都だっただけあって、”より洗練され、社交に長け、遠慮や含蓄“を持ち合わせている。(P・440)治安の問題さえなければ、こちらにいたいくらいだと言う。


確かに、ソマリランドの住人は、せっかちで大声で怒鳴るように話すし、おまけに自己主張が強く、人の話など五分も聞いていないとなると、読んでいるだけでその手強さが伝わってクラクラしてくる。付き合うのは、さぞかし疲れるだろうなと思う。


自分に関係のないことでも、思ったことを言わずにはいられないとか、言いたいことだけ言ってスッといなくなるって、こちらも精神的にタフでなければひどく堪えるだろう。何しろ、“百メートル歩くごとに十人から声をかけられて忙しいうえ、物乞いも多い。”(p・45)


それも、“「ハロー!」「ヒーホン!(『ニイハオ』のつもり)」「ジャッキー・チェン!」「ジェット・リー!」”と呼びかけられるには、まったく煩そうだ。おまけに、写真を撮れの撮るなの、カネを払えだの、騒々しいことこの上ない。


だが、その根にあるのは、遊牧民の習性と気づく。物事を瞬時に判断して行動、あるいは主張しなければ、半砂漠で暮らしてゆくことはできない。”遊牧民は荒っぽくなければ生きていけない。速くなければ生きている資格がないーという感じなのだ。“(P・49)


農耕民族である日本人とは対極にあるソマリ人への理解が深まり、共に行動しているうちに、いつしかソマリ化している自分に気づき、ソマリへの思い入れは深くなるばかりだ。ついには言葉も学んで、その後何度もソマリを訪れる。それらは、『恋するソマリア』(集英社・2015年)に詳しい。

 

この本がまた面白く、読み終えた後、これって映画みたいと思ったほどだ。初めて訪れた時知り合った人々のその後の人生、なかでも、ホーン・ケーブルTVモガディショ支局長の剛腕姫ことハムディには、「エッ?」そういうオチと、彼女を日本に招く準備の最終段階に入っていた著者ならずともびっくりだ。

 

親戚を頼って偽のパスポートで出国した彼女は、ノルウェーで難民として認められ移住したという。大学で学んだ後は、国に帰って政治家になるという目標を立てているそうだ。頭が良く度胸があって美人のハムディは、まだ二十代という若さだ。今後、彼女がどのように活躍してゆくのかも、非常に興味深く、楽しみだ。

 

実は、『謎の独立国家ソマリランド』も次男からのお譲りだが、おかげで、未知の世界への扉を開けてもらったような感じだ。知る必要のあることや、考えねばならないことが本当に多い。

 

Cafe 皇宮の森〜手作りトコロテンと都農(つの)町のトマトにとりわけ感激

f:id:teruhanomori:20171008145151j:image

三色の曼珠沙華

 

カフェ皇宮の森(宮崎市)でのランチ、玄関のドアを開けたら、お出迎えしてくれたのは三色の曼珠沙華たちだ。宮崎を訪ねたのは曼珠沙華真っ盛りのお彼岸の頃であったが、こちらでは、赤に混じってクリーム色(あるいは白)の花が目についた。個人のお宅の庭では、クリーム一色というのも案外多かった。

 

f:id:teruhanomori:20171008145232j:image

紅花のドライフラワー

 

横に目をやれば紅花のドライフラワーも置いてあって、(私たちだってかつては艶やかだったのよ)と、訴えかけられているようで、枯れた、もしくは老いたとはいえその存在も侮れない。食料油(サフラワー油)としてはもちろんだが、口紅の材料にもなる優れものだ。ちなみに、私は、紅花食品の一番搾りのサフラワー油を使っている。

 

f:id:teruhanomori:20171008145309j:image

季節の物を小鉢に


席について、さっそく自家製のあれこれが、ちょこちょこと思いきや結構たっぷり盛られた小鉢に箸を伸ばす。右下(端)のトコロテンの上に添えられた柚子胡椒は、当然だが自家製で、とっても香り高い。お聞きすれば、何とトコロテンも、海から天草を採ってきての手作りと本格的だ。これだけで、小鉢いっぱい頂きたいほど美味しい。決してオーバーではなく、こんなトコロテン初めてだ。

 

ヒジキもまた、「春先に、生まれ在所の佐伯の海まで行って採ってきたのを、保存しておいて一年中使う」とのことだ。今回のパスタは、手作りカラスミであったが、時期によっては、海に潜って取ってきた牡蠣パスタになるという。

 

f:id:teruhanomori:20171008145511j:image

手製カラスミと都農トマトのパスタ 

 

ところで、このパスタソースのトマトが物凄く美味しく、「何このトマト?」って、思わず口をついて出た。都農(つの)のトマトということで、その名は私も耳にしていたが、食べるのは初めてだ。本当に美味しい。実は今回、友人が私を都農町に案内してくれる予定だったという。ただ、私の方が西都へ行きたいとお願いしたので、そちらはまたの機会ということになった。ここには、ワイナリーもあるということでそれもまた楽しみだ。

 

f:id:teruhanomori:20171008145533j:image

天ぷらと豆腐ハンバーグ

 

天ぷらは、裏の畑でひとりでに大きくなったカボチャと、通りがかりの畑でサツマイモを収穫中の方に分けて頂いたものだそうだ。ご飯に入っているギンナンは今年の初物とのことで、これまた大ザルの上の栗と一緒に前日に採ってきたという。銀杏と栗のご飯には、アクセントに柚子の皮が混ぜ込まれているのでいい香り。

 

f:id:teruhanomori:20171008152933j:image

 銀杏と栗のご飯 

 

f:id:teruhanomori:20171008152915j:image

 栗

 

時期に応じた自然の恵みを満喫させてくれようと、何から何まで、あちこちに足を伸ばして集めてくれるなんて、まさにこれがご馳走だと感激しつつ胃に収める。

 

今回は量少なめでとお願いしたものの、いつもながらたっぷり用意してくださっていた。平素と違って、たまには胃をびっくりさせてもいいかと、ついこちらも奮闘してしまった。その結果、翌日の朝まで満腹であったが、全然胃もたれしないので助かった。

 

ところで、このカフェのオーナー大賀さんは、酵素やミリンに松葉エキス、切り干し大根に柚餅子からジャムなどなどと、季節折々何でも手作りされている。また、食品だけでなく、着物から転用したサロペットに作務衣まで作ってしまうというからびっくりだ。

 

畳の上にテーブルがいくつか、普通の民家を改装したレストランは、しっとりと落ち着いていて心和む。親戚の家にお呼ばれしたようなリラックスした雰囲気の中で、友人や大賀さんとおしゃべりしながらの食事はとても楽しく、我知らず口もよく動く。一人もいいけど、人と一緒もいいなと感じるひとときだ。宮崎へ行ったら一度はどうぞ!

 

f:id:teruhanomori:20171008145558j:image

Cafe 皇宮の森(こうぐうのもり)

(*お店は皇宮神社の裏手で駐車スペースも有り)

住所:宮崎県宮崎市下北方町5884
TEL:0985-20-8074

完全予約制

*私たちが伺った折に頂いたのは1500円

読後、身体中から元気と勇気と活力が湧いてくる『バッタを倒しにアフリカへ』

『バッタを倒しにアフリカへ』(前野ウルド浩太郎著・光文社新書・2017年)、一体何の本?と題名に戸惑うばかりか、バッタに扮した著者の写真に、単なる面白本か何かと、書店で目にしても手に取ることはなかったこの本も、実は次男からの譲り受けだ。

 

だが、読み始めたらあまりの面白さに、やるべきことなど放り投げてでも読み耽っていたくなる。まったく困ってしまうが、何とか必要な時間との折り合いをつけながら熱中。読み終えた途端、元気と勇気と活力といったすこぶる良い気が、身体中から湧き出てきた。

 

内容は、アフリカでの真面目なバッタ研究に取り組む日々を描いたもので、

 

“本書は、人類を救うため、そして、自身の夢を叶えるために、若い博士が単身サハラ砂漠に乗り込み、バッタと大人の事情を相手に繰り広げた死闘に日々を綴った一冊である。”(P・7)

 

と、まさにこの言葉通り、倍率20倍という難関を勝ち抜き、「日本学術振興会海外特別研究員」の制度を利用して意気揚々とモーリタニアに赴いた一人の昆虫学者の奮闘記だ。

 

しかし、いざ彼の地に渡ってみれば、

“バッタが大発生することで定評のあるモーリタニアだったが、建国以来最悪の大干ばつに見舞われ、バッタが忽然と姿を消してしまった。“(P・6)

 

そんな状態のままでどのように研究を続けるか、工夫の数々が、何ともユニークだ。殊に、満腹になったゴミダマ(正式にはゴミムシダマシ)の観察場面には笑える。”お腹いっぱいに食べたときの振る舞いが人間的で、なんとも言えない親近感が湧いてくる。“(P・141)

 

そんな有難くもない名前の持ち主とはどんな虫なのか、”この虫を雑に紹介すると、親指の第一関節くらいの大きさの角なしカブトムシだ。“(P・135)だそうだが、急遽、バッタが不在の間の研究対象となったこの虫に、こちらも興味を誘われる。「ああ、食った食った。今日は久しぶりのご馳走だったわい」と言いながら(実際はそんなことなど思わないだろうが)、重くなったお腹を抱えヨタヨタと歩く様が見えるようだ。

 

ところで肝心のバッタだが、ようやく見つけた一匹、「サバクトビバッタの孤独相の成虫」の写真のバッタには、哀切さとユーモラスな感じが入り混じっている。“5キロ歩いて一匹しかいない現状では、交尾相手に巡り合うのも大変そうだ”(P・135)に、このバッタの、生まれてからこれまでの人生ならぬバッタ生を想像してしまう。

 

ちなみに、「闇に紛れるバッタの幼虫」(P・41)は、その姿はもちろん虫そのものだが、全体の感じが、あたかも、擬人化しているかのようだ。バッタ生が始まったばかりの幼虫は、イソップ寓話の『アリとキリギリス』のキリギリスみたいに、明日のことなど少しも気にかけず暢気そのものだ。”トゲの生えた植物に潜んで“、カメラを向けた著者に笑いかけているようにも見えてしまう。

 

読むほどに、著者のバッタへの愛情が自分にも乗り移ってくる。だが実際、大量発生したバッタが農作物を食い荒らし、深刻な被害を引き起こすとあっては、可愛いだの、寂しくはないかいだのと、露ほどの同情もしていられない。むしろ、それぞれが孤独のまま、ひっそりとバッタ生を終えることが望ましいだろう。

 

と、まあこのように、モーリタニアでの研究生活が、一見面白おかしく綴られているのでずいぶん楽しそうと思えるが、実際は、様々な面で相当大変だったに違いない。

 

2年の海外研究制度の任期が終了した後も、無収入のまま自力で研究を続ける著者は、若手研究者の育成を目的とした京都大学・白眉プロジェクトという夢のような制度のあることを知り応募する。競争率30倍以上という超難関ではあったが、思いがけず一次審査が通り、二次審査での面接に臨むのだが、最終面接時に京大の松本絋総長(現・理化学研究所理事長)が、彼に労いの言葉をかけたというエピソードがそれを物語っている。

 

モーリタニアに何年目かと聞かれ、今年三年目ですと答えた著者に、

“それまではメモをとったら、すぐに次の質問に移っていた総長が、はっと顔を上げ、こちらを見つめてきた。
「過酷な環境で生活し、研究するのは本当に困難なことだと思います。私は一人の人間として、あなたに感謝します」
危うく泣きそうになった。”(P・299~300)

 

バッタをただ薬剤で防除するのではなく、生態を知ることで、被害を未然に防ぐための対策に活かせないものかと奮闘する著者に、この言葉は何と大きな励ましになることかと、読むこちらまで嬉しくなる。

 

アフリカに腰を据えて研究したいという熱意と本気度が伝わるからこそ、お金を研究所に呼び込むことのない著者ながら、モーリタニア・バッタ研究所のババ所長からも好意を抱かれ、期待もされるのだ。

 

ババ所長の言うように、

“バッタの筋肉を動かす神経がどうのこうのとか、そんな研究を続けてバッタ問題が解決できるわけがない。誰もバッタ問題を解決しようなんて初めから思ってなんかいやしない。”(P・81)

 

と、主に実験室だけで研究を進める先進国の研究者たちと、現実問題としてバッタの悩みを抱えている国との間には溝が深すぎる。そんなところに現れたバッタ博士である著者には、なんとしてでも研究をやり遂げて欲しいと、協力を惜しまぬのも頷ける。そして、ウルドという名誉あるミドルネームまで、授けてくれた。

 

ところが、「~の子孫」を意味するウルドは、その後モーリタニア政府が、
“「みんな確実に誰それの子孫なので、ウルドいらなくね?」という根本的な指摘をし、ウルドを名前から削除するようにと、法律の改正案が出された。”(P・361)ということで、ババ所長さえも改名せざるを得なかったそうだ。

 

それにしても、著者はよく頑張っているなと思う。“億千万の心配事から目を背け、前だけ見据えて単身アフリカに旅立った”(P・6)だけでは、棚からぼた餅など落ちてくるわけがない。ましてや、自分の希望を繋ぐものとしてのバッタがいないからといって、寝て待ったたところで、果報など永遠にやっては来ない。“自然現象に進路を委ねる人生設計がいかに危険なことか思い知らされた。”(P・6)と著者も言うように、何しろ相手は自然だ。

 

しかし、そこで挫けたり、くさったりするのではなく、自分の夢を叶えるため、どのような戦略が必要かを考え抜く。それこそが、まさにファーブルたらんとするバッタ博士の真骨頂だ。読了後、「いざ我も続かん」と、ずいぶん勇ましくなっている自分にびっくりするほど、元気漲る本だ。

 

美味しいうなぎとユーモラスな絵にお腹も心も満足〜本部うなぎ屋さん(西都市)

伊東マンショの生地・都於郡(宮崎県)を訪ねた後の楽しみは、同じく西都市内にある本部うなぎ屋さんでのランチだ。前回初めて伺った折はうな重だったが、今回は、うなぎをたっぷり食べたかったのでうな重(特)にした。但し、御飯は半分でとお願いしたので、お腹にもちょうど良く収まった。

 

f:id:teruhanomori:20170930161311j:image

うな重(特)と呉汁

 

御飯、蒲焼、御飯、蒲焼と二段にしますかと聞かれたが、一段にして頂いた。(あゝ、美味しいな)と大満足で、次は二段もいいかなと、食べ終わった途端に次回の心算をするほどだ。

 

f:id:teruhanomori:20170930161438j:image

 

店内には、こんなユーモラスな絵が掛かっていたので、写真を撮らせてもらった。うなぎだって、食べられてはたまらないと必死で逃げる。それを追いかけるオヤジさんと女将さん。あたかも、オーブンから逃げ出したジンジャーブレッドマンを追いかける小さなおばあさんとおじいさんのお話が思い出される。

 

ジンジャーブレッドマンは、最後には狐に食べられてしまったけれど、うなぎの場合は、いかに悪知恵の働く、あるいは賢い?狐でも無理だろうな。何しろヌルヌルとしてつかみどころがない。

 

そういえばこの夏の土用の頃、スーパーの鮮魚コーナー前で、発泡スチロールの箱に入ったうなぎが外に飛び出してニョロニョロしているのを見た。最初に気づいた買い物客が、「うなぎ脱走してますよ」と店員さんにガラス越しに知らせると、店の方は出て来るなり難なく捕らえた。さすが手慣れたものと感心してしまった。

 

ところで、本部うなぎ屋さんでは、二階にも絵があるのでよかったらどうぞと案内して下さった。「うなぎ十態」が描かれていて、こちらも微笑ましい。

 

f:id:teruhanomori:20170930161506j:image

 

f:id:teruhanomori:20170930161556j:image

 

f:id:teruhanomori:20170930161530j:image

 左から2番目が〈愛してるわ型〉

 

〈愛してるわ型〉などはさしづめ、川を渡してやるから自分のしっぽに乗るようにとジンジャーブレッドマンに上手いこと言った狐のタイプかもしれない。うなぎだって、捕まえられた後でよもや食べらるとも知らず、ちょっと嬉しそうな顔をしている。

 

食事の後はホンワカとした絵。お腹も心も幸せな気分でいっぱいのまま、やっぱり西都はいいところだとますます好きになる。もちろん宮崎には、西都の他にもいいところがたくさんある。一度はぜひどうぞ!

 

 

 

天正遣欧使節・伊東マンショの生地都於郡(トノコオリ)を訪ねて〜宮崎・西都市

昨年2月に宮崎に行った折、西都市出身の友人が、古事記に所縁の場所を案内してくれながら、ついでのように、「伊東マンショもここの出身なのよ」と言った時は全くびっくりしてしまった。私としては、どうして伊東マンショ知ってるのであるが、友人からすれば、私がその名を知っていることに逆に驚いたようだ。つまり、お互いその名を口に出してみたものの、よもや相手が知ってなんてことはあるまいと思っていたのだ。

 

f:id:teruhanomori:20170928060547j:image

展覧会 パンフレットより

 

私の方は、天正遣欧使節に関して歴史の教科書にあったかどうかさえ記憶が定かではなく、2015年の年末にポルトガルへ旅した際、エヴォラのカテドラルで初めてその足跡を知ったのであった。そして、伊東マンショ肖像画がイタリアで発見されたということで、昨年の6月、それが上野の国立博物館で展示された時に見に行った。だが、興味はそこまでであった。

 

それが今年の7月、たまたま若桑みどり著『クアトロ・ラガッツィ』を読み、急に伊東マンショはじめ、天正遣欧使節の少年たちに関心が湧いてきた。そして、次回宮崎へ行ったら、ぜひとも西都市の都於郡を訪ねたいと考えていた。

 

ちょうど本を読み終えた頃、友人からのハガキで、6月にご主人を亡くされたことを知り、秋のお彼岸に合わせお線香をあげに宮崎へ伺うことにした。

 

友人は、今度はどこに案内しようかいろいろ考えてくれていたようだが、私が都於郡に行きたいと伝えると、「何故?」と、まったく意外に感じたという。そして、私は私で、その名を以前友人から聞いた時にもましてびっくりしたことに、いざ会って話をしていた時、

"伊東マンショが生まれしところ
我らの我らのふるさと"

と、都於郡小学校の校歌まで歌ってくれた。何と友人は、伊東マンショの生まれたまさにその地がふるさとだったのだ。校庭には、伊東マンショ銅像も立っていたという。

 

f:id:teruhanomori:20170928060434j:image

左端奥に都於郡小学校

 

f:id:teruhanomori:20170928060451j:image

 

登校するたびその像を目にし、事あるごとに校歌を歌っていたのだから、これじゃ、私などが知る遥か前から伊東マンショに親しんでいたはずだと納得する。

 

ちなみに、都於郡小学校のホームページによると、現在の校歌は別だ。スマホでその校歌を友人に示すと、作詞者の名を見て、「金丸純子(すみこ)先生は、隣のクラスの担任の先生だったわ」と言うではないか。これにもびっくり。但し、この校歌に伊東マンショの名はなく、歌詞の3番に、"遠く ローマへ 続く道"と僅かに暗示されるだけだ。

 

f:id:teruhanomori:20170928060321j:image

三の丸への階段

 

f:id:teruhanomori:20170928060359j:image

 案内図 

 

f:id:teruhanomori:20170928060412j:image


都於郡を訪ねた日はあいにく雨で、三の丸辺りをざっと見学しただけだが、本丸も含めた全体が、想像していたよりずっと広く、これまた「エッ!」という驚きであった。

 

宮崎へ来るほんの少し前、久しぶりに読み返した『イタリア古寺巡礼』(和辻哲郎著・岩波文庫)に、天正遣欧使節の足跡を辿ろうと、パリからスペインへ回る方の話が出てきた。何度も読んでいる本なのに、以前は、この部分に何かを感ずることなど特になかった。だが今回は、その当時(1927年)から、日本人としてヨーロッパを初めて訪れた少年たちに熱い想いを抱いていた人々がいたのかと改めて興味を引かれた。

 

検索すると、その浜田さんという方も天正遣欧使節に関する本を書かれていた。しかしその本は、図書館で見つけられなかった。だが、ちょうど書架には、松田穀一著『天正遣欧使節』(講談社学術文庫)があったので、『クアトロ・ラガッツィ』とは別の視点で書かれた本も読んでみたかったため早速借りてきた。

 

こちらは、「伊東マンショとは誰か」(P・38)等、4人の少年たちの出生についても詳しい。(但し、それほど資料が残されているわけではない)

"昭和の初年に村上直次郎博士がマンショの郷里は「都於郡」であることを明らかにされたので、郷土の方々は思いがけぬ史実に驚き、かつ喜んでその記念碑を建てたのであろう。"(P・41)

 

とあるので、もしかすると都於郡小学校の校歌の歌詞にも、その辺りが反映されているのかもしれない。それを友人に伝えると、「そうかもね」と笑っていた。ただ友人いわく、「この頃は、伊東マンショといえば飫肥の方が有名になっちゃっているのよ」とのことだ。

 

飫肥(オビ)は、島津氏を降伏させた秀吉が、伊東マンショの母・町上(マチノウエ)の異母兄弟伊東祐兵に与えた領地だ。帰国後、秀吉から自分に仕えるよう誘われるも辞退し、九州各地で布教に従事していたマンショは、伊東祐兵に招かれて飫肥にも赴いているという。その頃、町上もその地に住んでいたらしい。

 

確かに飫肥は、小京都と言われるだけあって町並も風情がある。実際私も、飫肥の雰囲気が気に入って二度ほど訪れている。友人言うところの「何もない」都於郡城址よりは、人の注目が絵になりやすい所に集まるのも仕方のないことかもしれない。でも、島津氏に攻め入られてこの地を離れざるを得なかったマンショが、7、8歳の頃まで過ごした地はやはり見るに値する。

 

その後で、西都原古墳群の方へも回ってくれたのだが、ポコポコと数多くある古墳の緑と、その下に咲く曼珠沙華の赤とのコントラストがとても美しかった。ここへ来るのも三度目だが、時期が違えば眼に映る光景も異なることを改めて感じた。

 

また今回はパスしたが、県立西都原考古博物館もおすすめスポットだ。この3階のバルコニーから周囲を見渡していると、とても気持ちが良く、心が澄んでゆくような気がする。

 

ともかく、古事記にもその名が記されている西都は、派手な宣伝こそせずに、むしろ奥床しく佇んでいる感じがより好ましい。いい所だ。とても美味しい本部うなぎ屋さんもある。その紹介はまた今度。

かつて学問と文化の中心地だったトンブクトゥ〜アフリカへの認識が変わる本

アルカイダから古文書を守った図書館員』(ジョシュア・ハマー著・横山あゆみ訳・紀伊国屋書店・2017年)が、非常に読み応えがあって面白かった。旅行から帰った次男が私にくれた本だが、多分、自分では巡り合えなかった一冊だ。

 

何といっても、500年以上も前に、トンブクトゥ(マリ共和国)が学問の都であり、大学まであったことを知った時は、まさに目を見開かされる思いで、アフリカへの認識がガラリと変わった。また、少し前に読んだ本で、ずっと心に引っかかっていたことがあったのだが、それもこの本を読んで一気に晴れた思いだ。

 

ストーリーを簡単に追うと、

 

文学者でハーバード大学教授のヘンリー・ルイス・ゲイツは9歳の時(1960年)、アメリカの古い漫画、ロバート・リブレー作の『世界奇譚集ーウソのような本当の話』のひとつに目を奪われた。

 

"それは地元の地方紙に載ったひとコマ漫画で、長い上着を着てターバンを巻いた男たちが本を抱え、一六世紀のトンブクトゥの広い大学図書館を歩くさまを描いていた。幼いゲイツは、アフリカが未開で野蛮な地であるという伝統的な見方のもとで育っていたため、この漫画を目にして雷に打たれたようになる。
・・・西洋の偉大な歴史学者が「真実」として伝え、長らく受け入れられてきたアフリカ人の姿。それは新聞の漫画とは正反対のものだった。(P・73~74)

 

それから37年後、映像製作者でもあるゲイツは、アフリカ史のドキュメンタリーを撮るため訪れたトンブクトゥで、たまたま通訳兼ガイドの友人であるアブデル・カデル・ハイダラに出会う。

 

天文学書などの古文書を見せられ
"「ここにある本を黒人が書いたんですか?」ゲイツは目を丸くした。"
それは、
"「子供のころ、『アフリカ人は読み書きができず、本ももっていない』と学校で教わったものです」(P・76~77)
というゲイツからすれば、まさに信じられない思いであった。

 

結局、これを機に、ハイダラの私設図書館を作る計画が進み出す。それまでハイダラは、ムハマド・ババ研究所の調査官として働いていたのだが、その仕事に一区切りつけ、父の遺言により自分に管理を託されていた、ハイダラ家に伝わる膨大な古文書の整理・保存に着手したいと考えていた。

 

だが、資金集めに苦慮、"100か所以上の財団に助成金の申請を断られ、もはや万策尽きていた。"という。それがゲイツの後押しのおかげで、アンドリュー・W・メロン財団から助成金が交付されたのだ。
やがて、"マンマ・ハイダラ記念図書館は、世界の最先端をいく古文書保存施設へと急速に成長をとげ、2010年にはトンブクトゥにおける文化財復興の象徴となりつつあった。"(P・159)

 

しかし、マリ北部がアルカイダによって支配されるようになり、ついにはトンブクトゥも占領されてしまう。アルカイダに大事な古文書が破壊されるのを恐れたハイダラは、密かに、トンブクトゥ中の図書館にある古文書およそ38万冊すべてを、マリの首都バマコへ移すことを計画する。

 

この本にはその実行過程が、マリにおけるアルカイダの台頭状況とともに詳しく記されている。それにより、2013年にアルジェリア天然ガス精製プラントで日揮社員10人が巻き込まれた事件にも、そういうことだったのかと、今さらながらではあるが背景が非常によく理解できた。


ところで、ゲイツが数々の古文書に驚いたのも無理がない。"一四世紀後半になると、トンブクトゥは地域における学問と文化の中心地として台頭する。"(P・28)とあるが、西洋では、それらのことがまったく知られていなかったため、長い間、アフリカには芸術も学問もないと思われており、黒人は劣った存在と見られていたようだ。

 

"スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームは、1754年のエッセイ「国民性について」の中でこういいきっている。「私には、黒人が生まれつき白人よりも劣っているように思えてならない。"(P・74)
には、ただびっくりしてしまうが、このほかにも、ドイツの哲学者カントやヘーゲルなど"啓蒙思想とそれにつらなる哲学者たちの言葉"として、同じような意見を紹介している。

 

ところで、『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり著・集英社・2003年)の中でも、宣教師たちが日本人の肌の色にこだわっていた箇所があったのだが、結局、それらも根は同じでことあったと解る。

 

宣教師たちにとってなぜ肌の色が重要かというと、

 "南アメリカやアフリカで色の濃い人々を「発見」したとき、カトリック教会は彼らに布教することができるのかどうか真剣に議論した。"(P・125)

とあるように、当時(500年前)は、黒人には布教しても意味がないと考えられていたらしい。"魂の救済は人に対してであって"と、つまり人間かどうかという、唖然とさせられるような観点から論じられていたようだ。

 

日本人の場合も、宣教師それぞれによって、肌の色の評価が分かれていたという。日本人を黒人と言った準管区長のポルトガルカブレラは、"日本人には知性がなく精神もないから教育してもしかたがない野蛮人"と評しており、
巡察師ヴァリャニーノの方は、
"ことあるごとに日本人の肌の白さを強調していて・・・「日本人はすべてのヨーロッパ人と同様に色白く、高貴、聡明であり、徳操と学問の能力があり」というふうに、日本人の肌の白さを、ヨーロッパ人と同じ知性の外見的証拠としてあげている。"(P・124)
ということだ。

 

ちなみに、最初に日本へやって来たザビエルも、"「日本人は白い」と報告している"という。そこには、当時"知性の外見的証拠"を、肌の色で判断したということが窺える。

 

ところで、日本からはるばるヨーロッパまで渡った四人の少年たちは、長い旅の途上で日焼けして、報告書には、"「変色」した"と書かれていたという。それに対し著者は、色の白い日本人を見せたかった人たちにとっては、さぞ残念だったろうと書いておられる。このように、時折はさまれる若桑節が何とも愉快だ。

 

それにしても、もし、ヴァリャニーノをはじめ当時のヨーロッパの知識人たちが、自分たちとほぼ同時代のアフリカの人たちが、医学や天文学をはじめとする様々な知識と知恵が詰まった装飾も美しい本を持ち、しかも大学まであったことを知ったなら、どのような反応をしたであろうか。

 

殊に、知識人であり、観察力、洞察力ともに優れていたヴァリャニーノに、ぜひとも聞いてみたい。そして、肌の白さと知性には相関関係などないことに気づいてもらいたかった。もちろん、その後に現れた"啓蒙思想とそれにつらなる哲学者たち"も、アフリカにおける文化の高さを知れば、自らの言葉を撤回せざるを得なかっただろう。

 

などと、この本の趣旨からはやや逸れたことを思いながら読み終えた。ともあれ、読書の秋にぜひどうぞ!

やっぱりブリューゲルの絵はいいな『ブリューゲル探訪 民衆文化のエネルギー』

ブリューゲルかと書架から取り出した本(『ブリューゲル探訪 民衆文化のエネルギー』森洋子著・未來社・2008年)の表紙を見て驚いた。

 

f:id:teruhanomori:20170921225853j:image

本の表紙    (『農民の婚礼』部分)

 

中央には、ほんのり頬を染めた花嫁が幸せそうな笑みを浮かべて座っているではないか。あの時、このくらい花嫁の表情がはっきり見える画集に出会えていれば良かったのにという思いが過ぎる。

 

かつてライティングの授業で、この絵『農民の婚礼』のどこに花婿がいるかをテーマに、小論文を書くという課題が与えられた。参考にしようと小さな画集も買って、絵の中の全員を眺めるも、花嫁の表情が今ひとつよく分からない。花婿探しがメインといっても、やはり花嫁も気になる。

 

しかし、(婚礼の主役なんだからもっと大きく描いてくれてもよかったんじゃないのブリューゲルさん)とつぶやきたくなるほど、一応花嫁も入れておきましたくらいの小ささだ。もっともブリューゲルさんからは、(婚礼といっても、自分の時代の風俗としての関心があるだけで、花嫁個人にさほど思い入れはないものでね)と、反論されるかもしれない。


ところで課題の方は、ブリューゲル研究者たちの著書を探して読み、それに毎週頂くプリントも参照、画集から受けた印象等も合わせ、なんとか自分なりの結論を導き出し、期日までに提出することができた。だがその授業の後も、花嫁がどのように描かれているのかがずっと気になっていた。そして、結局ウィーンの美術史美術館へ見に行くことにしたのであった。


やはり行っただけのことはあった。『農民の婚礼』に『雪中の狩人』と気になっていた絵はもとより、他にも数々のブリューゲル作品を目にすると、やはり縮小サイズの画集からでは窺い知れないことが多々あった。そして何よりも、絵から受ける印象がまるで異なることに軽いショックを覚え、感嘆しつつ長いこと見入っていた。これがただ一度の機会になるだろうとしっかり見たつもりでいたが、実はそうではなかった。

 

今回この本で、

"中景で農家の煙突の炎に大騒ぎで消火する村人の姿はあまりに微細なタッチで、数回目に気がつく。"(P・290)

 

と、『雪中の狩人』での細かな描写について、(そうなんだ)と、すぐにでもその部分を確かめに行きたい気分にすらなってくる。研究者でなくとも、ブリューゲルの絵は、細部まで丁寧に眺めてこそ、その良さをより深く味わえるのだと思う。

 

ちなみに著者は、

"人間の本質を衝いたブリューゲルの作品には、われわれが加齢とともに、その意味をより深く理解できる、奥深い、不思議な魅力がある。
たとえば《ネーデルランドの諺》には、百近い諺によって、人間の愚行、弱点、失敗、虚偽に対する風刺や教訓、また民衆の知恵などが表現されている。"(P・325)

とおっしゃっている。

 

やっぱりブリューゲルの絵はいいなと、本を読み終えた今あらためて魅かれる。そして、ブリューゲルに限らず絵は、一度見たからといってよしとせず、何度でも機会を捉えては見に行きたい思いが強まる。ましてブリューゲルは、"加齢とともに・・・"ということなので、きっと見るごとに自分なりの新たな発見があって、更に楽しめるだろう。