照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

天正遣欧使節の4人の少年たちを描いた本があった〜しかも著者は若桑みどり

図書館で、『ローマ人の物語』さあ次はどれを借りようかと書架を眺めていて、ふいと横に目をやると、若桑みどりの名が目に入った。どんな本だろうとタイトルを見れば、『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国(上・下)』(若桑みどり著・集英社文庫・2008年)とある。

 

あの少年たちか、これは面白そうとページを繰れば、目次に続いて、「世界を行く天正少年使節」とあって、日本からリスボンリスボンからローマを往復した順路が書かれていた。

 

ローマからの帰路は、ジェノヴァから船でバルセロナに着いた後、モンセラート、サラゴサマドリードとある。ここからは、立ち寄り先は多少異なるが、来た時とほぼ同じ順路でリスボンまで戻っている。ちなみに往路は、リスボン、エヴォラ、ヴィラ・ヴィソーザから、(多分)バダホスを抜けて、グアダルーペ、トレド、マドリードへと向かっている。その先は、帰路とは異なる。

 

私は今回、バルセロナからリスボンまで、期せずして四人の少年たちと同じルートを通ったのかと、ちょっと嬉しくなる。だが棚にはあいにく、上下巻のうち下巻しかなかった。でも、これはどうしてもすぐ読みたいと借りてきた。時折、若桑節炸裂といったところがちょこちょこ現れるが、それでも面白くてぐんぐん読み進められる。

 

この四人の使節がどのように描かれているか、同時期に書かれ、保存されている別の国の幾つかの古文書などと比較しているのだが、下記では、


"フィレンツェの国立古文書館にある使節関係の一文書では、リヴォルノの港代官マッテーオ・フォルスターニからトスカーナ公にあてた三月一日に一行の到着されている。・・・「日本の島なるインドの公子四人到来」・・・"(下・P,18)

 

"だからインドを日本と混同したり(なんで日本からインドの公子がくるの?)、スペイン宮廷で厚遇されたから公子だと早合点したりするようなまちがいは、羊毛と塩と使節の到着を同じ報告書に書くような男がやったことである。"(下・P,19)

 

と、この切り捨てぶりに笑ってしまった。このようなちょっとした箇所に、書き手の性格が表れて愉快だ。

 

また、後年、日本の研究者たちが少年使節に関して、

 

"「ほんとうに彼らがそう自分で考えたのなら、幕末明治の先覚者のように、日本の進歩改善に貢献したのに」"とか、"つまり、彼らの見たものは、日本に帰ったときは一条の煙にすぎない、と。"(P・99)

 

等の、彼らが"「傑出した」"人物ではなかったからだとする見方に、

 

"私はこれらの先人の時代と社会の認識のずれに呆然とする。"(P・99)

 

そして、

 

"少年たちが見たもの、聞いたもの、望んだものを押し殺したのは当時の日本である。・・・それでも、彼らは、自分たちの信じることを貫いて生き、かつ死んだ。このあとの章でわれわれはその壮絶な後半生を見るであろう。人間の価値は社会において歴史において名前を残す「傑出した」人間になることではない。それぞれが自己の信念に生きることである。"(P・101~102)

と結ぶ。

 

後の人間が、ちょうど後出しジャンケンのように、いかようにでも好き勝手なことを言うのは、歴史に限らずあらゆる場面において見られることなので、著者の呆然とした気持ちにはまったく同感だ。

 

続く、第6章、7章では、織田信長から豊臣秀吉徳川家康及び江戸初期までの当時の日本の状況を、各藩や公家等の文書はもちろん、宣教師の残した書簡を含めた文章まで丁寧に辿りながら示してくれる。それを読みながら、膨大な資料を丹念に当たる作業を思い、クラクラするほどだ。

 

単に資料を鵜呑みすることなく、信用に値するかどうかあらゆる方面から考察し、そこに著者の推測も加え、解りやすく披露してくれるので、ああそういうことだったのかと考えさせられることしばしばだ。

 

話が戻るが、第五章では、ローマ教皇グレゴリウス十三世に謁見する際、4人の内、突如中浦ジュリアンだけが、病気という理由で他の少年たちと一緒に行動できなくなったくだり、その解釈にはとりわけ興味をそそられる。そこには、少年使節を"「馬に乗ってやってくる東方の三人の王」"に仕立てたいという教皇庁の思惑があったという。

 

また、少年たちの謁見から19日後、グレゴリウス教皇が亡くなり、コンクラーベを経てシスト五世が誕生するのだが、その戴冠式に、ローマ市民たちに異常な感動を巻き起こしていた少年使節たちを利用することを考えついた辺りなど、教皇の地位を巡って背後に控える有力者たちの勢力図なども本当によく理解できる。

 

そればかりか、世界の覇権が、カトリックの国々からプロテスタントの国々へと移ってゆく時代までを俯瞰していて、タイトルにある"世界帝国"とはまさにこれであったかと納得する。そして、そのような世界情勢に目を向けることなく、内に閉じてゆく日本(徳川幕府)の姿が見えてくる。

 

エピローグで、

 

"しかし、私が書いたのは権力やその興亡の歴史ではない。私が書いたのは、歴史を動かしてゆく巨大な力と、これに巻き込まれたり、これと戦ったりした個人である。この中には、信長も、秀吉も、フェリペ二世もトスカーナ大公も、グレゴリウス十三世もシスト五世も登場するが、みな四人の少年と同じ人間として登場する。彼らが人間として姿を見せてくれるまで執拗に記録を読んだのである。"(P・449)

 

と、おっしゃるように、著者の個々の人間への洞察は深く鋭い。殊に、秀吉という人物が本当によく浮かび上がってきて、ヘエッー!そうだったのかとびっくりすることも多々ある。秀吉ばかりか、これまで何となく知った気になっていた人物像が、ひっくり返される思いだ。 ともかく、面白い。早く上巻も手にしたいものだ。

 

 

 

メリダでローマ遺跡をみたのをきっかけに関心は古代ローマへと

今、スペイン語学習と並行して熱中しているのが、『ローマ人の物語』(塩野七生著・新潮文庫)だ。メリダ(スペイン)で数々のローマ遺跡に触れ、どうしてここにこれほど見事なローマ劇場や円形劇場が作られたのだろうという疑問が発端だ。


私には、古代ローマについての知識がほとんどない。ユリウス・カエサルをはじめとしてブルータスやアントニウスについては、シェークスピア作品で馴染んでいるに過ぎない。

 

ルビコン川を渡った時カエサルが発したという「賽は投げられた」や、暗殺された際の「ブルータス、お前もか」という言葉の背景までは、正直深く知らなかった。ちなみに、皇帝の名だってすぐに思いつくのはネロやハドリアヌスくらいだ。


かつてローマで、コロッセオフォロ・ロマーノを感激しつつ見学した割には、その後はそれらについてなんら調べようともせず、まったくその時限りで終わってしまっていた。


だが今回メリダで、こんなハゲ山に囲まれた地が、ローマにとってなぜ重要だったのかと感じたことは、旅を終えてからもずっと心に引っかかっていた。

 

それでまず手にしたのが、『ローマ人の物語』のうち、「賢帝の世紀」上・中・下の3巻だ。トライアヌスハドリアヌスと、セビーリャ近郊のイタリカ出身の皇帝に興味が湧いた。この二人は、初めての属州出身の皇帝だ。実は、今回旅程の都合でパスしたのだが、イタリカには行ってみたいと思っていたくらいなのだ。

 

読み始めたら面白くて、やっぱり帝国の基礎作りを手がけたユリウス・カエサル(6巻)から読まなければとなり、次いでローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(パクス・ロマーナ・3巻)、悪名高き皇帝たち(4巻)と進んできた。

 

これも著者が、当時から現代に至るまでに書かれたあらゆる書物、及び目にできうる限りの碑文や硬貨などを、最新の注意を払って読み解き、あるいは現地に幾度となく足を運び、その時代や人物像を再構築したうえに著者独自の視点も加え、くっきりと描き出してくれたおかげだ。

 

連続ドラマを見ているようで、もう一冊、もう一冊と夢中になっているうちに、最初は、こんなにあるのかと手を出し難く思っていた文庫本全43巻のうち、16巻までを読了した。タイトルに物語とうたっているだけあって、堅苦しい歴史書とは異なるが、それでいて2千年前が間近に感じられ、ヨーロッパの歴史も、地形と共にスルスルと頭に入ってくる。

 

ちなみに、今回サラゴサメリダでローマ劇場跡を見たのだが、

 "アウグストゥスはサラゴーサとメリーダにはとくに、多数のベテラン兵を入植させての植民都市を建設した。"(パクス・ロマーナ[上)]14・P・106)

 とあって、だからなのかと納得した思いだ。

 

ガイドブックには、
"メリダは、紀元前25年にローマ帝国の属州ルシタニアの州都として建設され、トレドとリスボン、そしてセビーリャとヒホンをつなぐ「銀の道」の要衝として繁栄した"そしてローマ劇場については、"紀元前24年にアウグストゥス帝の娘婿アグリッパによって築かれた。"とある。(『地球の歩き方・スペイン』P・166より)

 

ちなみにこの道は、名の由来ともなっているようにかつてヒホンから銀が運ばれた。また、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道の一つでもある。フランスから入る巡礼の道はよく映画のテーマにもなるが、他に幾つもあるなんてまるで知らなかった。

 

ところでアグリッパとは、カエサルが自分の後継者と目していたオクタヴィアヌ(アウグストゥス帝)には、軍事面での才が欠けていると見抜き、彼の右腕となるべく配した人物で、アウグストゥスとは同年だ。

 

しかもアグリッパは、"・・首都生まれの貴族どころか、イタリアの地方の低い出自であった・・"(パクス・ロマーナ[中]15・P・116)という。

 

しかしカエサルは、共に17歳だった少年それぞれに、後年発揮されることになるその能力を早くも見いだしていたとは、まことに天才の慧眼恐るべしだ。

 

また著者は、本の表紙(パクス・ロマーナ[中]15)にある銅貨の説明、「カバーの銅貨について」で、

"このセステルティウス銅貨の顔は、アウグストゥスの右腕と言われたマルクス・アグリッパ。この男の生涯を通じての協力がなければ、帝政への移行は不可能であったろう。"

と述べておられる。

 

アウグストゥスは、深く信頼していたアグリッパを、ついには自分の娘婿にも迎える。しかも、結婚していたアグリッパを離婚させ、その妻にも再婚先を用意する周到さだ。そのアグリッパがあのローマ劇場を作ったのかと、改めて感慨深い。

 

いやあしかし、メリダとはそういう所だったなんて、先に『ローマ人の物語』を読まなかったことが悔やまれる。歴史を知ってから遺跡を訪れた方が、面白味もグンと増すのにと、まったくもって残念だ。

 

また、サラゴサでもどこでも、硬貨などの出土品はサラッと眺めただけで済ましたが、いかに時代を雄弁に語っていたことかと、今になって自分の無知を嘆く思いだ。

 

それにしても急に沸き起こった私の古代ローマ熱、今しばらくは続きそうだ。カエサルの描いた青写真には驚くばかりだが、それを着々と進めていった賢帝、あるいは危機を招いた愚帝取り混ぜて、やがてどのように衰退していったのか、帝国の行方が最後まで気になる。

 

旅に出て、その地への興味が深まり、かつそれを満たすべく書物に当たる過程が、これほどもワクワクするとは、これもまた旅で、未だその途上なのかもしれない。

 

ともあれ、この本に出会えたおかげで、これから私の旅に臨む気持ちがかなり変わりそうだ。知識を手にあちこち回れば、旅が更に豊かに膨らむだろう。

 

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これは誰だったのだろう( メリダ 国立ローマ博物館)

俄か勉強だけでは限界がある〜というわけでただいまスペイン語学習に奮闘中

マドリッドでのことだ。朝9時過ぎ、宿を出て地下鉄のアントン・マルティン駅に向かう途中、乗る前に朝食をと思い立って、近くのバルに寄ってみた。角にある店は、間口は狭いが奥行きがある。入り口近くのショーケースには、お決まりのスペイン風クロワッサンとやや太めのチュロスがあるだけだ。

 

奥の方にもショーケースが見えたので、そのまま進んで行くと、(アララッ、変な人入って来ちゃったよ)と思ったかどうかは定かでないが、お店の方が困惑したような顔で、こちらを見ている。

 

宿は、地下鉄のアトーチャ駅との中間に位置していたのでこちらへ来たのだが、その困ったような顔に、言葉の解らない観光客はこの辺りまでは来ないのかと思うほどだ。それも、地方ならいざ知らず大都会マドリッドで、目の前のアトーチャ通りをそのまま進むと、旧市街の中心プエルタ・デ・ソルに行き着く。観光客くらいいつだって紛れ込んでくるだろうと、むしろこちらが驚く。まして、地下鉄の入り口側と立地も良い。

 

すると、カウンターに座って興味深げにこちらを見ていた先客の男性が、「イングリッシュ?」と言う。頷くと、「ブレックファースト?」と更に続ける。これは、良かった。英語が分かる人がいたとホッとしたのも束の間、それだけであった。(エッ?これでお終い。手助けしてくれるつもりじゃなかったの)と、内心ちょっとがっかりするが、甘い期待を抱いたこちらが悪い。

 

と、意を決したように女店員さんが、「・・・コメル・・」と聞いてくる。コメル(食べる)だけ聞こえたので、すぐさま頷く。そして、ショーケースに、バゲットのスライスに何か乗せた物が3個ほど入っていたのでそれを指差す。だが、男性店員さんもやって来て、二人で慌てたように、これはダメというように強くかぶりを振る。(じゃあこれは何なんだ)と思うが、黙っていた。

 

ついには男性店員さんが、入り口近くのショーケースの前に私を案内して、ここから選ぶようにとのことだ。仕方がないのでクロワッサンとカフェ・コン・レチェをお願いする。

 

パンと一緒にナイフとフォークが出される。手で食べるつもりだったので断るも、イヤイヤそうもいかないという感じで手渡される。それではと使ってみたものの、やはり食べづらいので、結局お皿の横に置いておいた。

 

クロワッサンとはいえ、形は三日月だが食感はだいぶ異なってまるで別物だ。それを口に入れながら、奥の方に見えたトルティージャにすれば良かったかなと思う。

 

それにしても、先ほどの男性客のお皿にはパンらしき物があったが、あれは何だったのだろうと、そちらも気になりながらモグモグしていた。ちなみに、新聞を読みながら食事している女性客の皿には、チュロスが乗っている。

 

そのうち、別の客が入ってきた。初老の男性だ。やがて運ばれてきた皿を見ると、トーストみたいなパンが乗っている。(アッ、私もそういうのが良かったな)、と思うが既に遅し。パンをもう一つ食べる気はしない。しかし、あれは何と言って頼むのだろう、先ほどの男性が食べていたのも、もしかしたらこれだったのかもしれない。

 

その疑問が解けたのは、メリダに行ってからであった。朝バルに行くと、トーストを乗せたお皿をテラス席に運ぶ店員さんがいた。私はすかさず、その方に同じ物をお願いする。

 

すると、「トスター(tostado)?」と聞かれたので頷く。次に、「・・、・・、トマーテ」と続けるので、「トマーテ」と答えてからカフェ・コン・レチェも併せて注文してテラス席を指差す。

 

トーストした半切りパンにトマトペーストを塗っただけの簡素な物だが、あの三日月パンよりは、ずっと私好みだ。これに気を良くして翌日の朝は別のバルで、「トーストはありますか」と覚えたての言葉で聞いてみた。店の方が頷いた後で、トマーテと付け加える。

 

席で待っていると、トマトペーストのトーストが飲み物と共にやってきた。前日のとはパンの種類が違うが、カリッとして美味しい。

 

バルセロナサラゴサでは、ショーケースやカウンターの上に、ボカデージョ(サンドイッチ)ばかりでなくいろいろな物があったので指で示すだけで良かったが、まさかケースに三日月パンとチュロスだけしかないバルが、こうも多いとは予想もしなかった。もしかすると、その方が標準なのかもしれない。

 

だが、これでとりあえず、どこのバルに入っても朝食は大丈夫だと嬉しくなる。やっぱり片言でも、俄か勉強のおかげだなと気分は上々だ。ところが、メリダでは昼食でまた困った。

 

昼頃、どこかで軽く食べようかと店を探していたら、看板のメニューにタパスという文字があるのに気づいた。これならちょうど良いと店内に入る。カウンターに座ると、店員さんが、自分はメニュー選びのお手伝いができると英語で言ってくれた。これは尚良いと、直ぐにガイドブックを開き、欲しい料理を指差す。

 

だが、ここでも会話はそこまでであった。おまけに、欲しい物はクロケッタ(小型のクリームコロッケ)しかなかった。喜んだのも束の間、ちょっとハシゴを外された気分だ。仕方がないので、自分でメニューから選ぶ。

 

注文した皿がきてまたビックリ。パタータは、ご丁寧にも小さな網カゴに入れられたフライドポテト。トマーテは、ただ薄くスライスしただけのトマト。まるで居酒屋のおつまみみたいで量も少ない。クロケッタだって、ごく小ぶりが3個であった。

 

そりゃ、バルだし、タパ(Tapa)は小皿という意味らしいが、いくらなんでもこれじゃ足らないでしょうと心の中でぼやく。単語から、サラゴサで食べたパタータをイメージしたのだが、完全にメニューを理解できなかった私の失敗であった。それと、トマトのスライスなんて、スペインでもメニューにあるんだとこれも意外であった。

 

とまあ、これに懲りて、本格的にスペイン語を学ぶことにした。といっても独学で、ただいま奮闘中だ。

 

 

 

 

ただウロウロしたあげく〜無駄にリスボンを乗り尽くそうの日になっちゃったよ

国立古美術館へ行こうとフィゲイラ広場から市電15番線に乗車したのだが、ベレン方面を目指す観光客で車内はかなりの混雑だ。運よく座れた私は、途中で立つのももったいなく思われ、10時の開館には間があるし 、どうせならベレンまで行っちゃえとなった。

 

それまではまったく予定にもなかったのだが、ベレンとなると、やはりパスティス・デ・ベレンのパステル・デ・ナタ(エッグタルト)だ。ここのエッグタルトは、クリームもパイ生地も、食感が他所のとは全然違っていて、本当に美味しい。私は日頃から、甘い物はほんのお試し程度しか口にしないので、ここのエッグタルトも一度食べたからいいかと思っていたが、やっぱりもう一度味見したくなった。

 

市電を降りて、ジェロニモ修道院へ向かう流れとは逆方向へ真っ直ぐに向かったのだが、既に2列の行列が、店の中から道路の方へと伸びていた。これは、持ち帰り用の列だ。これじゃ店内で食べた方が良いかなと思われたが、ベレンってこんなに距離があったっけと思うほど、ここまで来るのに予想より時間が掛かっていたので、座ってゆっくりお茶を飲む暇はない。

 

結局そのまま列が進むのを待つことにしたが、思った以上に早かった。レジで個数を言ってお金を払い、カウンターの方へと移動する。カウンター前では、レジを済ませた人が皆待っているので、レシートを渡すタイミングを計りながら、店員さんの動きをじっと見ている。そして目があったら、すかさずお願いする。これでようやく、エッグタルトが手元にくる。

 

店の外に出ると、さっきは何だったのというくらい列もなくガランとしている。つい、レジ側の入り口まで覗いてみたが、2、3人しかいない。まったく客足には波があるんだなあと、セカセカと焦り気味に行動した自分がバカらしくなる。

 

まあ、そんなこともあるよと自分に言いながら、店の前の道路を渡る。そこはちょうど、市電やバスの停留所になっている。椅子に座ってエッグタルトを食べ終えても、フィゲイラ広場方面行きの市電は来ない。そのうちバスが来て、そこで待っていたほぼ全員が乗り込む。同じ停留所だから、私の行きたい方面へも行くだろうと軽く考え後に続く。

 

一応、経路になっているかどうか聞いて、通らなければ降りようと思ったのだが、甘かった。最後に私が乗り込んだ途端、ドアが閉まってしまった。すると、ステップの横に立っていた男性が、チケット読み取り機はこちらとジェスチャーで示してくれた。バスの関係者かなと思った私は、前日購入した一日券(24時間)をタッチしてから、その人にガイドブックの停留所名を見せ、そこを通るか聞いてみた。

 

すると、普通の乗客だったようで、運転手さんに確認してくれた。だが、そこは通らないと言う。やっちゃったよと自分の迂闊さに呆れていたら、近くに立っていた別の男性が、(ウロ覚えだが)728番のバスに乗れば良いと、英語で教えてくれた。そして、バスが通りを進んで別の停留所が見えてくると、それを指差し、あそこで待てば良いと更に親切だ。

 

私は、路線毎に停留所も違うことを初めて知る。確かに屋根の上には、バスの番号と停留所名が書かれている。同じ通り沿いにあるからといって、どのバスも同じ停留所に留まるわけではないのだ。

 

またもや、目当てのバスだけがなかなか来ない。それならと、市電の停留所の方へと急いで戻った。すると、タイミングよく市電がやって来た。手を上げて車に止まってもらってから、道路中央にある停留所までダッシュ、何とか間に合った。来た時とはうって変わって、車内はガラガラだ。誰かに聞くこともできず、仕方がないので、自分の下車する停留所を数えながら乗っていたのだが、一つ乗り過ごしてしまった。

 

歩いて戻るには、あいにくこの区間だけがばかに長い。またもや、ア〜アの心境だが、もういいやと国立古美術館に行くのは諦めて、折良くやって来た728番のバスに乗る。客足と一緒で波があるのか、バスや市電も来る時は次々と来る。時刻表に従って運行しているのだからそんなはずはないのだが、どうもそんな印象が拭えない。

 

念のため、カイス・ド・ソドレ方面へ行くかどうか確認すると行くとのことで、安心して乗車する。しかし、慎重さを欠いたこんなことを繰り返しているのも、一日券があるおかげだなと、改めてこの券の有り難さが増す。

 

それと、首都リスボンといえども、英語があまり通用しないポルトガルなのに、バス車内に英語を話す方がいて本当に助かった。今回は、スペインも英語が通じないのが解っていたので、とりあえず片言でもと、多少スペイン語の準備はして行ったが、ポルトガル語は似ているから大丈夫くらいに考えて、何の準備もしていなかった。

 

せめて、前回用意したメモだけでも持ってくるべきであったと考えていたところだったので、言葉が通じる嬉しさはひとしおであった。大した会話というわけではないが、乗り間違えで焦っている時に、こちらが分かる言葉での的確な指示はやはり嬉しい。

 

でも、ただウロウロと、市電に乗って、バスに乗ってを繰り返しただけで、この日唯一の目的地には辿り着くことがなかった。まったくおマヌケとしか言いようのない私だ。だがこの後で、前回(7/1付)書いたピッカ線へと乗ることになったので、終わりよければすべてよしか。

 

ちなみにこの日は、結果として無駄にリスボンを乗り尽くそうみたいになってしまった。自分のテキトーさ加減に、一日券があるからっていい気になるなよ、有効時間も残り少ないぞと釘をさす。しかし、これもまた、気楽な一人旅の良さかな。

 

 

リスボンは子ども心を刺激する街〜ケーブルカー・ピッカ線に乗ってウキウキと

リスボンへは、ヴァスコ・ダ・ガマ橋 から入るとばかり思っていたら、前方右手に巨大なクリスト・レイの背中が見えてきた。向かっているのは4月25日橋の方だと気づくが、前回(昨年11月)と同じ時間帯のバスで、しかも行き先は同じくセッテ・リオス バスターミナルなのに、なぜ経路が違うんだろうと思う。もちろんどちらもノンストップだ。
*クリスト・レイは、リオ・デ・ジャネイロ(ブラジル)にあるキリスト像に模して作られた高さ110mの像で、テージョ川の対岸からリスボンを見渡すように立っている。

 

全長17.2キロと長いヴァスコ・ダ・ガマ橋に、最初、ここは海なのかと戸惑ったが、地図で確かめると、その辺りだけ川幅が極端に膨らんでいた。大西洋へと注ぐ直前でキュッとすぼまっているが、そこに架かるのが今回渡る4月25日橋だ。こちらは、2.2キロ(正確には2277m)の吊り橋だ。ベレンにある発見のモニュメントや大西洋まで見えるので、景色としてはこちらの方が楽しめる。

 

やがてバスがリスボン市内に近づくと、緑の中にフワッフワッとした紫の塊があちこちに点在しているのが見える。ジャカランダだ。上から見るこの花は、色こそ違うが、ちょうど満開の桜のような感じで壮観だ。今の季節、どこでもジャカランダを見るが、地上からそれぞれの木を見上げるのとでは、また異なった趣きがある。

 

私の中では、リスボン3度目だし、ちょっと飽きちゃったかなという懸念もあったが、まったくそんなことはなかった。ジャカランダに迎えられて気分が高揚したというのもあるだろうが、それ以前に、リスボンは子ども心を刺激する街だ。子ども心なんて、当の子ども時代でも、あったかどうだかという私であるが、市電やケーブルカーに乗るのが楽しくてしょうがない。

 

小さな頃から乗り物酔いがかなり酷く、乗り物全般苦手であったという裏返しなのか、(時には酔い止めの薬を使用しながらではあるが)、今は乗り物が結構好きだ。(但し、遊園地は除く)

 

初めてリスボンを訪れた時は、一番人気の市電28番線の起点から終点まで乗車した。あまりに楽しくて、再度長い列に並んで同じルートを戻って来たりもした。ケーブルカーだって、見かけるとすぐ乗ってみたくなる。テージョ川を見下ろせるピッカ線などは、わざわざ探したわけではないが、たまたま前を通って乗ることができた。

 

ケーブルカーといえば、かつてサンフランシスコでも、地形によるアップダウンが楽しくて、何度も繰り返し乗った。但し、リスボンのあっという間に着いてしまうケーブルカーと違って、サンフランシスコの場合は距離が長く、むしろ市電の感覚だ。

 

リスボンでは、多分急坂対策なので、乗客を、坂の上あるいは下まで運んでお終いだ。でも、映画などでも目にするピッカ線は、さすが絵になるだけあって、地元民の足というよりも、今では観光客の方が多いような気がする。

 

ところでこのピッカ線、今回はあえて乗りに行った。最初は、カイス・ド・ソドレ駅でバスを降りてから地下鉄に向かったのだが、確か乗り場はこの近くであったと思い出して行ってみた。この路線は、なんと言っても川が見下ろせるのがいい。前回は坂を下ってきたので、運転席越しに見ていたが、今回は上りなので、後部座席に座って存分に景色を眺めることができた。

 

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ケーブルカーピッカ線  中央奥に見えるのがテージョ川

 

映画『リスボンに誘われて』でも、主人公が、ケーブルカーの横の坂を登って宿に向かうシーンが思い出される。ただ、カイス・ド・ソドレ駅周辺は、バスや市電が通る駅前の通りはまだしも、そこから中に入ると、昼間でもちょっと怖い雰囲気が漂う場所もある。

 

店もたくさんあって、慣れれば何ということもないのだろうが、ベンチで寝ている人や、うろんとした焦点の定まらない目つきで立っている、もしくは所在無げに腰を下ろしている人などの姿に、臆病な私はドキドキもので足も早まる。危ない場所のセオリー通り、割れた瓶やら紙くずも散らばっている。何でこんな所へ入ってきてしまったんだろうと思いながら、カイス・ド・ソドレ駅の方へ急いだ。昨年11月のことだ。

 

それより以前、ピッカ線を下りた後初めてこの辺りを歩いた時は、スーツケースを引っ張っている人を何人も見かけ、その後をついて駅まで行ったのだが、この周辺に宿を取るのも案外いいかもしれないと思えた。でも、今では用心センサーが作動して、泊まるどころか不要な散策もする気にはなれない。旅人という意識は常に必要だ。

 

というわけで、今回は、リベイラ市場の前を通り、横にある公園の手前で曲がってというように、なるべく、広くて人の多い通りを選んでピッカ線の乗り場へと向かった。私が着いた途端にケーブルカーは出発してしまったが、待つことにした。しばらく待つうちに人もどんどん増えたが、先頭にいたおかげで席も確保できた。もっとも、立って乗車したところで大した距離ではない。

 

このケーブルカー、本当に楽しくて何回でも乗りたくなるが、下りを待つ乗客が既に列をなしているので諦めた。ここから少し上に行くと、人気の市電28番線乗り場がある。乗ろうかなと一瞬心が動いたが、こちらも乗車待ちの人々でいっぱいだ。結局、地下鉄の駅まで歩くことにした。

 

リスボンでは、一見不便に思える起伏の多い地形自体がワクワクの素になっていて、乗り物ばかりか、フウフウ言いながら歩くのだってこれがまた楽しく、ズンズン足が進む。まったく旅の締め括りに相応しいよと浮かれ気味の私だ。

 

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ホテル近くのジャカランダ

 

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ホテル近くリベルダーデ通りの向こうにジャカランダ

 

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ホテル近くのジャカランダ

 

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ロシオ広場のジャカランダ

『車いすで飛行機に乗る時は』いすみ鉄道社長ブログで問題点がよく理解できた

今回だいぶ話題になっている、バニラエア・奄美大島空港での車椅子使用乗客への対応の件、いすみ鉄道社長ブログに、問題点は何かが非常に明解に語られている。

 

かつて航空業界におられた方だけあって、説得力がある。これで疑問に思っていたことすべてが、読み進むにつれストンと腑に落ちた。これはぜひとも多くの方々に読んで頂きたいと願う。

車いすで飛行機に乗る時は」6/29付記事はこち

http://isumi.rail.shop-pro.jp/?eid=2918

 

パラリンピックの選手に関しての記述で、

"機内備え付けの通路用の車いすなどは使用せず、自分で床を這って座席まで移動される方がほとんどです。そしてそういう方々は、手助けされるのを嫌がる人が多くて、階段だろうが通路だろうが、自分で這うようにさっさと進んでいきます。これって、知らない人がその光景を目の当たりにすると結構ショッキングだったりしますが、本人たちは当たり前に行っています"

 

に、ああそういうこともあるんだと、"知らない人"の一人として正直かなり驚いた。

 

だからこそ、今回の件では報道する側もそこをクローズアップして、読む者へ与える心理的効果を狙った見出しにしたに違いない。但し、"階段だろうが通路だろうが、自分で這うようにさっさと進んで"行くというパラリンピックの選手たちと、今回やむなくではあったにしろ同様のことをされた方との行動には、大きな違いがある。そして、ここにこそ問題の本質が窺える。

 

また、これまでは、利用規約に関してさほど深く考えることもなく飛行機を利用していたが、なるほどそういうことなのかと改めて納得した思いだ。そして、車椅子使用などの特別なことに関して、事前連絡がなぜ必要かもよく理解できる。

 

ツイッター上では、ややもすると感情だけで双方への批判に突っ走っている感があるが、なぜそうなのかを、もっと根本に立ち返って考える必要があると思われる。その一助になるのが、懇切丁寧に説明してくれるいすみ鉄道社長ブログだ。

 

この件に限らず、この方のブログでは、物事はただ単純に正しいか否か、つまり白か黒の問題ではなく、もっと複雑にさまざまな要素が絡んでいるということを改めて教えられる。そして、その要因をひとつづつ丁寧に解きほぐし、示してくれるので理解しやすい。

 

以前の「なぜ中国人たちは騒いだか」の記事でも、その背景がよく解り、簡単にマナーの問題かぐらいに考えていた私は、ニュースの上っ面を見て判断するのはアブナイと心底感じたものだ。今度も同じだ。繰り返しになるが、この『車いす・・・』の記事だけでもぜひお読み頂きたい。

 

 

 

ホテルのスタッフもカフェのおじさんも顔ぶれが変わらないという安心感

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ジャカランダの花 エヴォラにて

 

エヴォラで2泊した後は、午前のバスでリスボンへ向かう。延べ日数にすれば短い滞在でしかないのに、年毎の訪問となったせいか、この町にすっかり親しみがわいて、バスに乗り込む時は、故郷を後にする時のようなある種の寂しさすら覚えた。

 

宿泊したのは、毎回同じホテル・リヴィエラ。ジラルド広場からカテドラルに向かう、10月5日通りにあるこじんまりしたホテルだ。午前中カウンターの奥に座ってチェックアウトを担当しているのは、瘦せぎすでメガネを掛けた初老のおじさん。尖った顎が、サミー・デイヴィスJr.を思わせる。

 

今回も早く到着してしまった私に、12時過ぎなら部屋が用意できると済まなそうに言って荷物を預かってくれた。そりゃそうだろうな、朝食時間がようやく終了して、これから部屋の掃除に取り掛かるのだからと、私も無論納得。

 

チェックイン担当は、こちらもメガネを掛けた小太りの中年のおじさん。既にチェックイン済みの私を、部屋まで案内してくれる。荷物は先に運ばれて、部屋で私を待っていた。おじさんから型通りの説明を受けながら、昨年11月に訪れた時も、温度調節について、リモコンを操作しつつ説明してくれたなと思い出す。

 

メイドさんたちの顔ぶれも変わらない。3人で、朝食の準備から、シーツ類の洗濯に室内清掃まで全て切り盛りしているようだ。皆さん、しっかり者母さんといった感じで、不足している物は無いかとチェックしながら、キビキビと働いている。合間に、自分用のコーヒーをカップに入れてゆく。やっと一息といったところか。

 

食堂でテーブルに着く面々も、皆さん連泊されているようで、前日の朝とほぼ同じメンバーだ。どなたも、ゆったりと寛ぎながらたっぷり召し上がっている。自分のことはさておき、観光する場所はさほど多くなくても、1泊で慌ただしく通り過ぎるようなことはせずに、エヴォラに連泊するんだと軽く驚く。

 

これも、我彼との旅に対する考え方の違いの一つかなと思う。とはいえ、西洋の皆さんの、個人旅はもとよりツアーに関しても、考察するほどには詳しくない。

 

でも、メリダ(スペイン)でも感じたことだけど、観光だけにあくせずせず、訪れた地でのんびり過ごす雰囲気がかなり濃厚に伝わってくる。まさか、メリダを訪れたメインの目的がホテル(パラドール メリダ)のプールというわけではないと思うが、老夫婦も若人たちも、それぞれが楽しげにバシャバシャやっていた。気温が32、3度ともなれば、水遊びにもってこいだ。

 

また、観光するにしても、私が歩き回るのをパスしたローマ競技場などでも、日差しの強い中、土の塊の間をゆっくり歩いている。〈本家ローマの大競技場のように、その形を多少なりとも留めているならまだしも、何が面白くて炎天下にこのだだっ広い野っ原を〉と、正直私には、その気持ちがよく分からなかった。

 

チケット売り場の横から中に入って、出土品などの展示物を見てから上の階へ行くと、昔の戦車競走を再現した簡単なビデオ上映がある。その先から外に出られるようになっていて、競技場全体が見渡せる。

 

その広さを実感するには、ここから目測するだけは不十分なのか?とも思ったが、それは実際大きさお世話だ。人には人の楽しみ方がある。要は、何もないから見る価値無しと切り捨てるのではなく、興味の赴くままにのんびり掬い上げてゆく旅をしている人が多くいるように見受けられたということだ。だから小さな町でも、駆け足せずに連泊するのかもしれない。

 

話が、ホテルのスタッフから西洋の方の旅スタイルへとだいぶ外れてしまった。が、ともあれ、ホテルの皆さんは、こちらのことなどまったく意識の端にすらないだろうが、訪れる度、見慣れたメンバーがいるというのは何となく安心感がある。

 

エヴォラではホテルだけでなく、初めて訪れた時から、同じカフェに毎日のように行っていた。そこは、メインの通りから僅か横に入った場所にあるのだが、客層はほぼ地元の人で占められていた。

 

一杯のコーヒーを前に丹念に新聞を読む人、おしゃべりに余念がないカップルに家族連れ、仕事の合間の一休みといった作業着姿の人まで、皆さん結構ゆっくりと過ごしているので、私も足休めのつもりががつい長居してしまう。テーブルも椅子も簡素極まりなく、時にはハエだって飛んでくるのだが、広くてぶっきらぼうな店内は案外居心地が良い。

 

カウンターの中で主となって立働くのは、こちらも当初から見慣れたおじさんだ。特に愛想が良いというわけではないが、感じが悪いわけでもなく、ごく普通のおじさんだ。私が、トシュタ・ミシュタ(ホットサンド)を半分しか食べられずに残したら、持ち帰りにしようかと聞いてくれたのでお願いした。

 

6、7時間経つとうまい具合にお腹が空き、冷えたホットサンドではどうかなと思ったが、口にするとどうってことなくちゃんとお腹に収まった。残した半分は、薄切りパン2枚にチーズとハムが挟んであるだけだが、空腹とはまったく大したもので、美味しく頂いた。

 

エヴォラでは、このように、こちらだけが数人を知っているに過ぎないのだが、それでも誰一人知る人がいない町に比べれば、ずっと親しみが増す。そんなわけで、冒頭に戻れば、多分もう来ることがないだろうなと、ちょっぴり感傷的になった次第。次はいよいよリスボン