照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

倹しい夕餉 詩「味噌」に寄せて

経済学者である河上肇の「味噌」という詩を読むと、素朴な夕餉に、生きる喜びが満ち溢れている。1944年元旦の作という。

   味噌     河上肇

・・・省略

どろどろにとけし熱き芋
ほかほかと湯気たてて
美味これに加ふるなく
うましうましとひとりごと
けふの夕餉を終へにつつ
この清貧の身を顧みて
わが残生のかくばかり
めぐみ豊けさを喜べり
ひとりみづから喜べり

『詩のこころを読む』茨木のり子・岩波ジュニア新書・
P・207~210

政治犯として5年近くの獄中生活を終えて出獄し、敗戦の翌年亡くなられたという元京大教授・河上肇の本を、私は読んだ事がない。配給制度の時代に、味噌をおまけしてもらった嬉しさを織り交ぜているこの詩も、初めて知った。

"「顔」がきかなければ、汽車の切符もろくに買えないような時代でしたが、作者は見返り品ひとつない政治犯としての、惨憺たる侘びずまいであったのに、庶民からも敬し、愛される何かを持っていた人のようです。"(P・210~211)

というように、ご本人の人柄が偲ばれる。故郷から届いた赤芋(里芋)を僅かな砂糖と買ってきたばかりの白味噌で味付けし、「 うましうまし」と食べる様子に、その熱さと、人から受けた恵みへの感謝まですべてが伝わってくる。物もこのように食べられるなら、誠、役目を果たしたと本望であろう。頂くというのは、いつもこのようで在りたい。

この詩を味わっているうちに、清貧とは対極にある開高健の、『新しき天体』を思い出した。美味しい物を求めてあちこち出かけていく事がテーマのこの本を読んだのは、若い頃だ。自分とはまったく無縁の世界に、いつか自分もそのような店を訪れたいものと少し憧れた。だが、山菜採り用の簡素な山小屋に滞在した主人公が、それまでお腹に詰め込んだ一切合切を無にするラストは印象的で、結局は、水が一番美味しいという結論に、食べるということについて深く考えさせられた。

更に、食に関していつも頭に浮かぶのは、幸田文が描く父露伴の言葉だ。露伴は、「俺は何も珍しい物や高価な物を食わせろと言っているのではない。普通の物を普通に料理して出してくれと言っているんだ」と、台所を与る娘へしばしば小言を言ったようだ。旬の物を、毎日工夫しながら一番美味しい状態で供するというのは、これまた難しかったであろうと察する。時期に盛りの物は、材料だけでみれば全く倹しいかもしれないが、食事としては最高の贅沢であろう。

食べ物を含めて、物は少ない方が、有難さや感謝の思いが湧きやすいのかもしれない。倹しい食事を、生命の糧と捉えられる「味噌」という詩には、心の豊かさが感じられる。この心持ちこそが、今の時代に通じる贅沢ではないだろか。そのように考えれば、清貧な一皿も、希少で高価な食材をふんだんに使った一皿も、考え方次第では同じなのだ。まかり間違っても、高額な支払いだけを、贅沢とは思いたくない。1本30銭の白菊を飾った食卓で、熱々の里芋をご馳走と喜ぶ心を持ち続けたい。