照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

倚りかからず〜自分の頭で考え、自分の足で大地にしっかりと立つためには

電車内で、隣の人に寄りかかってぐっすり眠っている人に、言葉の連想から「倚りかからず」という詩を思い出した。倚りかかっていいのは、確かに椅子の背もたれだけだと、私も思う。

倚りかからず     茨木のり子

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

(『倚りかからず  』茨木のり子ちくま文庫・P62~P64)

茨木のり子の詩は、いつでも私を元気にしてくれる。詩人の青春時代は、今とは比べものにならないほど劣悪な環境だった。だが、激しい思いとはうらはらに、その詩にはユーモアが漂う。それは、声高に権利や自己を主張する位置を微妙にずらし、とんがり感を失くす効果となって現われる。

正しいことだから当然とばかりに主張する人は、その中に刃を含んでいることに注意しなければならないと、河合隼雄さんは説く。自分を、正義の使者と勘違いして発言をすることのおかしさを意識しなければ、それはいずれ、人も自分をも切る刃となる。茨木のり子は、その辺りを十分に理解している。

また、茨木のり子が、おんなの言葉を、パクパクと鯉が口を開けている様に喩えたのは、愉快で情景が浮かんでくる。自分が使う言葉は、本当に大事だ。ただ口を開けて文字の塊を出したところで、何も生み出されず、泡となって消えてゆく。

既成の権威にもたれず、倚りかからず、自分の頭で考え、自分の足で大地にしっかりと立つためには、自分の言葉が必要だ。私もいつか、自分の言葉を掴み取ることができるだろうか。