照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

重いテーマにせつなくなる章〈硬くて冷たい椅子〉『カテリーナの旅支度』より

『カテリーナの旅支度 イタリア 二十の追想』(内田洋子・集英社・2013年)を読んだ。『ジーノの家』同様、さまざまな人生模様がじわっと心に染みてくる本だ。

大半は豊かで恵まれた、もしくは、出自が貧しくとも成功を手にした人々の話で、その山あり谷ありにも心穏やかにページを繰っていられる。しかし〈硬くて冷たい椅子〉は、移民問題に絡めたちょっと切ないエピソードであった。エクアドルからイタリアに来て、掃除婦として働いている元小学校教師のデルマという40歳前後の女性が、仕事に向かう始発の市電内で罵られたことが話の発端だが、何ともやりきれなくなる。

"エクアドルも日本も、欧州連合圏外という区分けでは同類である。市電で席を立つように言われた経験は私にはまだないが、〈圏外人〉であることをひとときも忘れることはない。"(P・216)

この箇所に、1955年にアメリカで起きたローザ・パークス事件、及び当時の日本人の米国での立場などが思い起こされた。これは公民権運動のきっかけともなった事件で、ウーピー・ゴールドバーグ主演で『ロング・ウォーク・ホーム』というタイトルで映画化されている。また、名誉白人として遇される日本人の複雑な気持ちを、ロックフェラー財団の基金で1960年にテネシー州ナッシュビルに留学した安岡章太郎は、『アメリカ感情旅行』に書いている。

上記のような状況から半世紀以上経って、どこの国でも、差別は見え難くこそなってはいるものの、水面下から不意に飛び出してくるということは、まだ日常的にあると思う。そのうえ、昨年からシリアやアフリカの国々から欧州へ押し寄せる難民は更に増えている。それにつれ、地元住人との軋轢もますます大きくなっていることは、しばしば報道されている。

表面上を取り繕うなどということさえ、もはやかなぐり捨ててしまったのかもしれないと、自分がそこに立たされたかのような暗い思いが広がる。本音を包み隠していればいいというものでもないが、あからさまに臭いだの汚いだの座るななどと言われるのはやはり堪えるだろう。

いつ頃のことか年代は定かではないが、EU圏が誕生して以降だから、それほど古い話ではない。場合によっては、自分がその市電に乗り合わせていることもありうる。他の乗客同様、目を逸らして被害が及ばないようにしているしかないのだろうか。正直、これまでそのような状況は想像したこともなかったが、いずれの立場にせよ、自分が巻き込まれた場合をも考えておく必要はある。

それにしても、移民問題はまったく難しい。単に同情論だけでは語れない。かといって、遠い国のことだからと無関心でいるわけにもいかない。だが、考える手立てを見つけようといろいろな意見を読むにつれ、ますます分からなくなる。またそれ以外にも、国内外にはあれこれ問題が山積しているが、そのどれをとっても、いい解決方法なんてあるのだろうかと、やや暗澹としてくる。