照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

杉原千畝から根井三郎、市井の人々、そして小辻節三へと引き継がれた命のビザ

(凄い人がいたものだ)と、『命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民』(山田純大著・NHK出版・2013年)を読み終えて暫くは、その偉業にただ感服していた。そして、乏しい資料を手繰りながら、丹念に小辻節三という人物の足跡を追い続け、本として結実させた著者にも、まったく頭が下がる思いだ。


9月下旬、宮崎を訪れた時のことだ。昼食のため本部うなぎ屋さん西都市)に伺った際、友人が、「ここのうなぎは佐土原のよ」と言ってから、ふと思い出したように、「あの“命のビザ”に関わりのあった一人、根井三郎も佐土原の出身なのよ」と教えてくれた。


初めて耳にする名前でもあり、その場は、そういう人もいたんだくらいで終わってしまった。それから一週間ほど経ったある朝、ラジオから根井三郎という声が聞こえてきた。リトアニアから日本通過ビザを持ったユダヤ避難民がウラジオストクに続々と到着し出した頃、書類の再検査をするようにとの外務省からの指令に抵抗し、かつ日本へ渡れるよう尽力した根井について、この番組の宮崎市内在住の地域レポーターの方が話されていた。

 

と同時に、根井三郎ってどんな人だったのだろうと、俄然興味が湧いてきた。だが、地域レポーターの方もおっしゃっていたように、根井本人が当時の事を言わなかったこともあり、宮崎では、このことは知られていなかったそうだ。市(だったか県だったかはややうろ覚えだが)では、まず、佐土原で根井姓を当たっての親族探しから始めたそうだ。

 

根井三郎について、何か詳しく書かれた本でもあればと考えていたが、これではちょっと望み薄な感じだ。それでも、図書館でいろいろ検索するうちに見つけたのが、今回手にした本だ。但し、根井三郎に関しては、他の本に記述されているのと同じくらいほんの僅かであった。しかし、もともとのテーマが小辻節三なのだからそれも致し方ない。


ちなみに、外務省の指示に対して、“・・・日本の出先機関が出したビザの信用を失わせてしまうと言って、必死に抵抗した。”(『六千人の命を救え!外交官杉原千畝』白石仁章著・PHP研究所・2014年・P・124)根井三郎は、ハルビンの日露協会学校で杉原千畝と一緒に勉強した仲間の一人で、当時ウラジオストク総領事代理を務めていたそうだ。


ところで、当初著者名に、あの「あぐり」で吉行淳之介役を演じた俳優さんみたいだけれど、何故?この本をと、かなり意外に感じた。でも、読み進むうちに、著者にとっても最初はただの好奇心だったものが、次第にこの事実を世に知らしめることが自分の使命ではないかへと変わっていく過程に、そうだろうなとすんなり頷ける。

 

“「『百年以内に誰か、自分をわかってくれる人が現れるだろう』・・・父は亡くなる間際にそんなことを言ったの」
その言葉が、私の心に強く響いた。
帰りの車の中で私は急にニューヨークで会ったトケイヤー氏の言葉を思い出した。
「君が小辻のことを本にしなさい」”(『命のビザを繋いだ男』・P・29~30)


確かに、この力作が出版されるまでは、“彼の功績を知る日本人は少な”かったことと思われる。小辻の娘さんたちからして初めは、トケイヤー氏から教えられて電話したものの、取材には絶対応じられないと難色を示していたという。それまで、よほど嫌な思いをし続けてきたに違いない。

 

数ヶ月して会う機会が訪れた時、著者は、英語で書かれた小辻の自伝のどの部分に自分が感銘を受けたかを話すうち、娘さんたちにも、小辻のことを本気で知りたいというその熱意が通じ、それ以後はかなり協力して頂いたそうだ。

 

著者本人も、さまざまな偶然によって小辻及び彼を知る人々に辿り着いたが、小辻自身もまた、まるでドラマの如く、危機に陥る度、助けが得られている。小辻が、ユダヤ難民のために、どのような働きをしたかについては本を読んで頂くとして、憲兵隊本部から出頭命令が来た翌日、尋問から拷問へと切り替わり、意識が朦朧としかけた時の出来事は、まさに劇的だ。

 

この時代、彼と同様に拷問を受けた人々の多くが命を落としている。出頭命令を受けた時から、“憲兵隊の背後にはナチスの影がある。ならば、自分は逮捕され、拷問の末に虐殺されるだろうー。”(P・129)と覚悟を決め激痛に耐えていた小辻の前に、大佐の階級章を付けた男が現れ彼を救う。“男はかつて、満州で小辻と家族ぐるみの交流をしていた憲兵隊のシラハマ・ヨシノリだった。”(P・130)


その後、安全を求めて小辻は、家族を伴って満州に向かう。後でわかったことだが、憲兵隊の暗殺者リストに名前が記されていたそうだ。まさに間一髪のところで、知人が目の前に飛び込んでくるのはまったく奇跡的だ。でも、彼の場合、窮地には必ず手が差し伸べらている。それもみな、報いなどまるで考えることさえなく、それまでに本人が、ただ人としての信念に基づいて為したことへの結果だ。

 

杉原千畝から始まった命のビザが、根井三郎、難民を日本へと運んだ船、上陸した人々に優しく接した敦賀の人々、そして、向かった先の神戸で難民たちから窮状を訴えられて手を貸すことになった小辻節三へと繋がったからこそ、六千人の命が助かったのだ。どれが欠けても上手くいかなかったとはいえ、それでも特に、10日間の通過 ビザしか持たない難民たちの落ち着く先が見つかるまで、ビザ延長に尽力した小辻の力は大きい。

 

外務省に何度足を運んでもすげなく断られ、しかたなく、旧知でもあった当時の外務大臣松岡洋右に相談しに行った折、松岡があるヒントをくれたことでビザ延長に成功した。しかもなんと松岡は、杉原が本国にビザ発給の許可の求めた際、ノーと言った人物でもあったのだ。著者が、この時の松岡の胸中を考察する辺りもなかなか興味深い。

 

だが喜んだのも束の間、その少し後ドイツから、”大量のユダヤ人を虐殺し、ユダヤ人から蛇蝎の如く恐れられていた男“(P・103)ヨーゼフ・アルベルト・マイジンガーが、東京に派遣されてきたという。そしてマイジンガーは、ユダヤ難民を一網打尽にしようとあれこれ画策していたそうだ。

 

神戸のユダヤ人は増え続ける一方、ナチスドイツからの圧力はますます激しくなっていき、受け入れ国のビザを持たないユダヤ難民の渡航先であった日本占領下の上海では、残忍極まりないマイジンガーの計画に同調する日本軍将校たちもいたという。

 

それにしても、そのような危うい状況に置かれていたユダヤ人たちのことを思えば、日本から難民たちを出国させることができて本当に良かった。まったく著者いうところの、“日本の歴史の一ページに「ホロコースト」という汚点を残さずに済んだのである。”(P・117)

 

そして、小辻節三の奮闘によって救われたのは、六千人のユダヤ難民だけでなく、私たち日本人の名誉でもあったことが分かる。こんな大恩人を、後世に生きる私たちはしっかり胸に刻む必要があると、改めて思う。

 

*お知らせ

今回を以って、「照る葉の森から」は終了致します。

これまでお読みくださった皆様、本当にありがとうございました。

 

縄文時代から人は何をどのように食べてきたか〜『食の考古学』が興味深い

題名が気になりたまたま手に取った『食の考古学』(佐原真著・東京大学出版会・1996年)が、予想以上に面白かった。第一章(豚・鶏・茸・野菜)から、第二章(米と塩)、第三章(煮るか蒸すか)、第四章(肉食と生食)までの、縄文時代から以降、人々が何をどのように食べていたかはまさに気になるところだが、それ以後の章がさらに興味を惹かれる。

 

それは、第五章(箸と茶碗)、第六章(食とからだ)、第七章(犬・氷・ゴミ)、第八章(最後の始末)*これはトイレ考、となっている。

 

遺跡から出土した様々な物を、時代時代の古い文献と照らし合わせつつ、確実なこととしていいかどうか、丁寧に追ってゆく作業はまったく根気仕事だ。殊に、トイレ跡と思しき場所の調査などは、

 

“一九九〇年、九州でトイレの発見があった。現状では、八世紀半ば、すなわち確実なところで日本最古の便所である。”(P・206)

 

ということだが、ひときわ黒ずんだその辺りの土を掘り起こし、かつてお腹を通り過ぎた内容物等を項目別に仕分けするなんて、千年以上前の遺物とはいえちょっと大変だ。(*但し、本が出版された1996年当時のことだ)

 

考古学の場合、状況から判断してきっとそうに違いないと思える事でも、出土品が無ければ推測で決めつけるわけにはいかない。そのため、最終的にトイレと認めるには、土の成分測定やら何やら確実な証拠が必要となる。ちなみに、“便所には特定のコレステロールが形成される”そうで、“大昔のトイレの認定にきわめて有効”な分析方法があるという。

 

また、落とし紙のないこの時代は、トイレで、チュウ木というヘラを使用していたようだが、それらと共に、“イエバエの蛹の抜け殻”や種子なども見つかっているそうだ。そして、“これらの種子の大半を占めるのは、ウリ、アケビの類、ブドウ属とアキグミだった。”ということだが、リンゴもあったということで、結局、この穴の中からは、“九科一二種を見出している。”という。

 

こうしてみると、やはりトイレの跡って、物凄く大事な場所だ。厠の名の由来も、今でいうところの水洗と同じで、下を水が流れるようにしていたと聞けば、それで「カワヤ」かと即座に納得する。

 

また箸の出現と普及についても、“七世紀から八世紀終わりにかけての藤原宮の役所で働いていた下級役人たちは、ほとんど箸を用いることなく、まだ、手づかみで食べていた。”(P・136)ということで、人々の間に箸が広まったのが、私が漠然と考えていたよりずっと後ということにやや驚いた。“魏志倭人伝の表現を借りれば、手食だった”という。

 

そして、“十六世紀のフランスでは、まだ手づかみで食べており、モンテーニュは早喰いだったため、しょっちゅう舌や指を噛んだ、という話である。藤原宮の役人たちの中にも、早喰いで指を噛む男たちがいたのではないか。”と、その想像による描写(P・136~7)が、かつて私たち日本人が、ナイフとフォークを使い始めた頃を想起させて愉快だ。

 

“・・・唐の国ではその昔、手づかみで食べたので、人差し指を食指と呼ぶのだそうだ。そういや、食指が動く、というじゃないか。うまいもの見りゃ指が動くのヨ。これからは二本棒が動くのかヨ・・・などと家族にこぼす男がいたのではないか。”と、この最後の部分には、まるで落語みたいだと笑ってしまった。考古学者である著者は、ユーモアのセンスもお持ちなのだ。

 

だが、“しかし、中には、二本棒など使いよって、と新式の食べ方を軽蔑し、古来の法にのっとって手食をまもる人びともいたことだろう。‘と、想像は更にその時代の庶民へと続く。だがその頑固者も、”八世紀末以来、平安京では、庶民の間にも箸は普及していたのだろう。こうなると、手食派は異端視され、箸を使うことも知らないと、疎外されることになる。”、そしてこれ以後、“箸にまつわる礼儀も次第に生まれていったことだろう。”には、大きく頷かされる。

 

“この書物は、味の素食の文化センターの『VESTA』誌に書いたものをはじめとして、食や食器について今まで書いてきたものをまとめたものです。”と、まえがきにあるように一般の人向けなので、考古学に日頃から馴染みのない者が読んでも楽しめるよう工夫が凝らされていて、なるほどと納得しながらどんどんページを繰っていける。

家族の肖像としても興味深く読める『ライト兄弟』

ライト兄弟』(デヴィッド・マカルー著・秋山勝訳・草思社・2017年)は、有人動力飛行に世界で初めて成功したウィルバーとオーヴィルを軸に、後半は妹のキャサリンも加わった一家の物語で、彼らが互いにやり取りした手紙を主として組み立てられている。

 

ライト家の人々は、自分の見聞きしたことや感じたこと、その場の様子と細々としたことまで、あたかも暖炉の前でその日の出来事を家族に話して聞かせるかのように、まったく感心するほど頻繁に書き送っている。離れた地にいる間のそれぞれの近況は手紙を介すしかなかった時代とはいえ、巡回牧師をしていた父をはじめとして全員が実に筆マメだ。

 

兄弟が、自転車の製造・販売で資金を稼ぎながら、自分たちの夢である飛行機械を作ってゆく過程も興味深いが、後半、飛行に成功した後、売り込みのための試験飛行でフランスに滞在した折の、ウィルバーの物の見方や感じ方には更に気を惹かれる。

 

ウィルバーは、自由になる時間はすべてパリ探訪に当ててよく歩き回っており、“とくに足繁く通い続けたのがルーヴル美術館で、ここで何時間も過ごしては、延々と続く館内の通路をこれまで以上にじっくりと見て回っていた。”(P・199)そうだ。

 

レンブラントやハンス・ホルバイン、ヴァン・ダイクのほうが、ルーベンスティツィアーノ・ヴェチェッリオ、あるいはラファエロやムリーリョよりも「総じて」優れていると推していた。「モナ・リザ」に失望したのは、ノートルダム寺院のときと同じだった。“(P・199)ということで、ダ・ヴィンチの作では、「洗礼者ヨハネ」が気に入っていたという。

 

一般的に高い評価を受けているか否かに依らず、自分の感性に合っているどうかで判断するという姿勢は、いかにもウィルバーらしい。“「白状すると、巨匠の手になる絵画で印象に残ったのは、一番世に知られている作品ではありませんでした」“(P・199)と、”白状する“という言葉を使っているところも微笑ましい。

 

”本人はそれまで建築と絵画に関してあまり興味や必要を覚えていなかったようである。“というが、いざパリに来ると、俄然高い関心を抱いたようで、”目にした絵画について書いたウィルバーの手紙は何枚にも及ぶことがあった“(P・199)そうだ。

 

しかしウィルバーは、ヨーロッパ屈指の格式ある豪華ホテルに滞在しながらも、そこの素晴らしさについてはまるで触れておらず、通りの店々やオペラや劇場、通りを行く女性たちのファッションについてもまったく言及していない。

 

妹キャサリンにすれば、試験飛行する場所に木がどのように植わっているかよりは、人々の様子がどうであるか、振る舞いやファッション等に関心が強かったようで、その辺りをもっと詳しく教えてくれるようにと、ウィルバーには強い調子で訴えている。

 

もっとも海を越えての旅行など、普通の人々にとっておいそれとは叶わない頃で、まして、“仕事と家の責任でずっとしばられた生活を送ってきた“(P・297)キャサリンが、未知らぬ街のことを逐一知りたいと思うのも当然であったろう。だが、やがて彼女も、兄たちの渉外係のような立場でフランスに赴くことになる。キャサリンが、34歳の時だ。

 

フランス滞在中にフランス語の勉強も始めた彼女は、ラテン語教師をしていただけあって上達も早く、父への手紙には、”「いまではフランス語もだいぶわかり、かなり上手に話せるようになりました」“(P・308)と書いている。父は、ウィルバーが一年フランスにいても言葉を覚えようとしないことに気をもんでいた。

 

だが、そんな父への思いに応えるためというようむしろ、多分キャサリン自身、フランスでの、自分たち兄妹への歓待ぶりにすっかり気を良くし、言葉の習得にもことさら意欲が増したと思われる。何しろ、兄の手紙ではどうにも知り得なかったパリでの、”美しい淑女やお花やシャンパン“の世界を、まさに自分が体現しているのだから、それらをもっと知ろうと言葉獲得へ熱も入るわけだ。


題名が『ライト兄弟』というだけあって、当然飛行機に関する諸々の話を中心としているのだが、話の進行につれ家族それぞれの人物像もくっきりとしてきて、これは家族の肖像になっているということがよくわかる。ちなみに、ライト家にはこの3人の他に、長男、次男がいるが、彼らは自分たちの家族と共に暮らしているので、あまり登場しない。

 

そして、ウィルバーが腸チフスのため45歳という若さで亡くなった後は、父と兄妹の3人で暮らしていた。だが父も亡くなり10年ほど過ぎた頃、キャサリン52歳の折、オーヴィルの大反対を押し切り、大学の同窓生と結婚する。しかしその2年後、彼女も病気で息を引き取る。若い頃患った腸チフスに試験飛行時の墜落事故と、二度も生死を危ぶまれたオーヴィルは、76歳まで生きた。

 

この最後の部分を読みながら、ここから映画にしても面白そうと思っていたら、訳者あとがきによると、この本はドラマ化が決定しているそうで、権利を得たのは、トム・ハンクスとケーブルテレビのHBOとのことだ。どんな映像になるのだろう。

 

ところでそのドラマには、スミソニアン協会の会長チャールズ・D・ウォルコットの姑息さについてのエピソードも、ぜひ挿入してもらいたい。国から巨額の予算を注ぎ込んで失敗したラングレー教授の飛行機エアロドームに、後年こっそり改造を加え、飛行に成功すると、その部分を取り外すなどの隠蔽工作をして、彼こそがライト兄弟に先駆けて飛行に成功したと“お墨付きを与えた”のだ。

 

ラングレー教授の名誉回復を図ると同時に、そうまでしてライト兄弟の失墜を目論むとは、協会の権威主義に呆れかえるばかりだ。ウィルバー亡き後、ウンザリするほど様々な訴訟沙汰に対処してきたオーヴィルが、とりわけ激怒するのも当たり前だ。

 

彼らはその当時、“ラングレーに対して、兄弟は批判や軽んじた発言はいっさい口にしていない。それどころかラングレーには畏敬の念を寄せ、自分たちの研究においてラングレーの果たした役割に感謝さえしていた。”(P・144)という。しかし“この国でもっとも権威ある研究機関であるスミソニアン協会”の側からすれば、素人同然のライト兄弟が極低予算で製作したフライヤー号などに先を越されてたまるかという悔しさがあったのかもしれない。

 

成功した暁には、ただ空を飛びたいとの夢だけを追っていては済まされない出来事も多く、まったくドラマの要素たっぷりで面白かった。これも、次男から回ってきた本で、自分の関心分野とは異なる目に改めてありがとうという思いだ。

 

都知事の“鉄の天井”発言に違和感〜ただ本人のメッキが剥がれただけではないのか

小池都知事が滞在中のパリで、前駐日大使のキャロライン・ケネディ氏と対談した折に発したという言葉“鉄の天井”に、〈何勘違いしてるの、ただメッキが剥がれただけでしょう〉と心底呆れてしまった。

 

10/23付のYahoo!ニュースによると、

“「都知事に当選してガラスの天井を一つ破ったかな、もう一つ、都議選もパーフェクトな戦いをしてガラスの天井を破ったかなと思ったが、今回の総選挙で鉄の天井があると改めて知りました」と惨敗を振り返った。”

だそうだ。

 

確かに、小池さんが都知事候補に名乗りを上げた当初は、ガラスの天井を破らせてなるものか的な雰囲気が、様々な立場の男性を中心にかなり濃厚に漂っていたように思う。だが、巨額な利権がらみの魑魅魍魎が蠢いているごとき場所へ敢えて乗り込み、闇を照らし出してみせるという勇ましさに、都民はこぞってエールを送ったのだ。それが、本人言うところの”都知事に当選してガラスの天井を一つ破ったかな“だ。

 

だいたい、その前の男性知事二人が、何とも情け無い理由で辞任していたので、表面的にはいかにもクリーンに見える彼女が、ゴーストバスターとしてうってつけに見えたということもある。実は私も、投票所へ向かうまでは、都政の舵取りをこの人に託そうと考えていた一人だった。ガラスの天井を守ることに固執する者たちへの反発もあった。しかし、いざ投票用紙に記入する段になって、彼女について引っかかっていたある一点が頭をもたげ、結局、別の候補者の名を書いた。

 

最終的に支持はしなかったものの、ある程度の期待を寄せて、都知事になってからの動向には注目していた。でも、徐々にアレッ?ということが増えていき、今年の夏の都議選では、彼女が率いる党の候補者には、ほとんど心動かされなかった。だが結果は、本人曰く、”都議選もパーフェクトな戦いをしてガラスの天井を破ったかなと思った“である。

 

多分、都議会にキレイな風を通してもらいたいという都民の思いが、弱いながらも持続していたのだと思うが、それを本人は、自分の魅力もしくは魔力のおかげと信じ込んでしまったのだ。

 

そしてついに、民進党のゴタゴタに国民がウンザリしていたところに的を絞ったかのように、希望の党を立ち上げた。世間的には、まったく良いタイミングであったかもしれない。しかし、私の中では、彼女に対する信頼できない思いがますます広がるばかりで、もはや希望の党には期待など露ほども持てなかった。きっと、同じことを考えている人も多かったに違いない。今回の選挙戦の結果は、それを示していると思う。

 

だが本人はそれを、“鉄の天井があると改めて知りました”というのだから、自分というものを少しも解ってない。こちらこそ、“やっぱり危惧していた通りの人だったと改めて知りました”の気分だ。重ねて言うが、“鉄の天井”云々以前の問題で、ただ単にメッキが剥がれたに過ぎない。それをすり替えたりしてもらいたくないと、つくづく思う。

 

そして、昨年からすれば今や私の期待度は天と地ほどになってしまっているが、それでも現職の知事である以上、これを機に勘違いは改めて、都政に身を入れてもらいたいと切に望む。

 

未知の世界への扉が開かれる〜『謎の独立国家ソマリランド』と『恋するソマリア』

(これは目から鱗がバッサバッサだわ)と、『謎の独立国家ソマリランド』(高野秀行著・集英社文庫・2017年)を読み終えた直後はただ驚嘆していたけれど、よく考えればそれ以前の問題であった。目から鱗どころか、だいたいが何も見てもいなかったのだ。ソマリアと聞けば、反射的に海賊という言葉が浮かぶくらいで、それもニュースで報じられた当座の一時的な関心であった。

 

でも、”「謎」や「未知」が三度の飯より好きな“著者は、『国マニア』(吉田一郎著)という本でソマリランドを知り、”「独自に内戦を終結後、複数政党制による民主化に移行。普通選挙により大統領選挙を行った民主主義国家である」“(P・15)という記述に、“ライオンやトラが咆哮する真ん中で、ウサギが独自の仲良し国家を作っているみたいな絵が浮かび、そのあまりの非現実さに笑ってしまった“(P・16)が、実際はどうなのか俄然興味が湧く。

 

そこからいろいろと調べ、日本にいるソマリランド人(城西国際大学のサマター教授)と何と出発の当日に10分ほど会うことができる。教授から、信頼できる人として大統領を紹介してもらうも、メールアドレスも電話番号も知らないまま現地に赴く。2009年の春のことだ。

 

と、話は、まったく雲をつかむが如く始まるのだが、そこからが本当に恐れ入ってしまう。ソマリランドばかりか、海賊国家プントランドと戦国国家南部ソマリア他、自称国家の名乗りをあげている国まで、それらの経緯と、その元となっている氏族との関連に至るまで、読む者に分かりやすく示してくれる。

 

氏族に関しては、分家から分分分分分分分家と、いったいどこまで分かれているのか、その複雑さに読者が投げ出しそうになるのを見越して、日本で言えば平氏とか源氏、あるいは藤原氏や北条氏等、馴染みのある武将に置き代えたりと、工夫して説明してくれる。そして、そのような氏族社会の事情を一切考慮することなく、一方的に、自分たちのやり方が最上と信じて介入する国際機関への疑問。

 

著者は、国際社会が、ソマリランドを独立国家もしくは「安全な場所」として認めることが、旧ソマリア圏内を含むソマリ社会全体を支援する最良の方法と説く。”戦争を起こしたり、治安が乱れている場所にせっせとカネを落とす行為は、暴力と無秩序を促進する方向にしか進まない。“(P・554)と、身体を張った取材から見えてきた解決案を出している。

 

また、可哀想な難民という同情を煽るように作り上げられたイメージと 、自分が目にした難民キャンプで暮らす人々とのギャップに戸惑う。そして、ソマリアのホテルでばったり会った日本人のフリーカメラマン瀧野恵太さんから見せてもらった写真に、

 

”一通り見ながら私は、「やっぱりな・・・」と思った。みんな、笑顔だ。“(P・394)と、著者は、ケニアの難民キャンプをはじめいくつかのキャンプを回って抱いた、“「別に悲惨ではない」”という思いを再確認するに至る。“何よりイメージと違うのは、笑顔の人が多いということだ。”

 

ソマリ人は写真を撮られるのを嫌う人が多く、まして笑顔の女性を撮るのは難しいそうだが、”難民キャンプでは話が別である。カメラを向けると、みんな嫌がる様子もなく、にこにこと微笑む。“(P・395)そうだ。


それを筆者は、
”彼らは戦乱や飢餓から必死の思いで逃れてきた。・・・やっとたどりついた「安全地帯」で、・・・私たちのようにカメラを向ける外国人は「自分たちを助けてくれる人」と無意識に認識するのだろう。だから、警戒心もなく、むしろ仲良くしたいという意思表示で微笑むのだろう。
これが現場のリアリティである。“(P・397)
と分析する。

 

それにしても、外務省情報では、警戒レベルがシリア並みという最悪の地を、護衛の兵士や通訳や案内のガイドを雇って(しかも高額)回る著者には、いくら秘境好きと言っても程があるだろうと、ただびっくりするだけだ。でもそのおかげで、実態がかなりくっきり見えてくる。


しかし、国が無くなって通貨が安定するとか、民主的になるとか、ソマリランドについて知るにつれ、いったい国家とは何なのかと考えさせられる。

 

しかも、国際的に認められていないソマリランドが平和で、国連やEU、アメリカ、アラブ、アフリカ諸国が支持する暫定政権が置かれている南部ソマリアは、常時緊張状態が続き銃声が絶え間ない。あまりにも危険なため、著者は、首都モガディショで(2009年当時)は、一人でホテルから出ることも許されない。これにもまた、再び、国家って何となる。


ただ、ハルゲイサ(ソマリランド)とモガディショ(南部ソマリア)に住む人々の気質はだいぶ異なる。モガディショは、かつて都だっただけあって、”より洗練され、社交に長け、遠慮や含蓄“を持ち合わせている。(P・440)治安の問題さえなければ、こちらにいたいくらいだと言う。


確かに、ソマリランドの住人は、せっかちで大声で怒鳴るように話すし、おまけに自己主張が強く、人の話など五分も聞いていないとなると、読んでいるだけでその手強さが伝わってクラクラしてくる。付き合うのは、さぞかし疲れるだろうなと思う。


自分に関係のないことでも、思ったことを言わずにはいられないとか、言いたいことだけ言ってスッといなくなるって、こちらも精神的にタフでなければひどく堪えるだろう。何しろ、“百メートル歩くごとに十人から声をかけられて忙しいうえ、物乞いも多い。”(p・45)


それも、“「ハロー!」「ヒーホン!(『ニイハオ』のつもり)」「ジャッキー・チェン!」「ジェット・リー!」”と呼びかけられるには、まったく煩そうだ。おまけに、写真を撮れの撮るなの、カネを払えだの、騒々しいことこの上ない。


だが、その根にあるのは、遊牧民の習性と気づく。物事を瞬時に判断して行動、あるいは主張しなければ、半砂漠で暮らしてゆくことはできない。”遊牧民は荒っぽくなければ生きていけない。速くなければ生きている資格がないーという感じなのだ。“(P・49)


農耕民族である日本人とは対極にあるソマリ人への理解が深まり、共に行動しているうちに、いつしかソマリ化している自分に気づき、ソマリへの思い入れは深くなるばかりだ。ついには言葉も学んで、その後何度もソマリを訪れる。それらは、『恋するソマリア』(集英社・2015年)に詳しい。

 

この本がまた面白く、読み終えた後、これって映画みたいと思ったほどだ。初めて訪れた時知り合った人々のその後の人生、なかでも、ホーン・ケーブルTVモガディショ支局長の剛腕姫ことハムディには、「エッ?」そういうオチと、彼女を日本に招く準備の最終段階に入っていた著者ならずともびっくりだ。

 

親戚を頼って偽のパスポートで出国した彼女は、ノルウェーで難民として認められ移住したという。大学で学んだ後は、国に帰って政治家になるという目標を立てているそうだ。頭が良く度胸があって美人のハムディは、まだ二十代という若さだ。今後、彼女がどのように活躍してゆくのかも、非常に興味深く、楽しみだ。

 

実は、『謎の独立国家ソマリランド』も次男からのお譲りだが、おかげで、未知の世界への扉を開けてもらったような感じだ。知る必要のあることや、考えねばならないことが本当に多い。

 

Cafe 皇宮の森〜手作りトコロテンと都農(つの)町のトマトにとりわけ感激

f:id:teruhanomori:20171008145151j:image

三色の曼珠沙華

 

カフェ皇宮の森(宮崎市)でのランチ、玄関のドアを開けたら、お出迎えしてくれたのは三色の曼珠沙華たちだ。宮崎を訪ねたのは曼珠沙華真っ盛りのお彼岸の頃であったが、こちらでは、赤に混じってクリーム色(あるいは白)の花が目についた。個人のお宅の庭では、クリーム一色というのも案外多かった。

 

f:id:teruhanomori:20171008145232j:image

紅花のドライフラワー

 

横に目をやれば紅花のドライフラワーも置いてあって、(私たちだってかつては艶やかだったのよ)と、訴えかけられているようで、枯れた、もしくは老いたとはいえその存在も侮れない。食料油(サフラワー油)としてはもちろんだが、口紅の材料にもなる優れものだ。ちなみに、私は、紅花食品の一番搾りのサフラワー油を使っている。

 

f:id:teruhanomori:20171008145309j:image

季節の物を小鉢に


席について、さっそく自家製のあれこれが、ちょこちょこと思いきや結構たっぷり盛られた小鉢に箸を伸ばす。右下(端)のトコロテンの上に添えられた柚子胡椒は、当然だが自家製で、とっても香り高い。お聞きすれば、何とトコロテンも、海から天草を採ってきての手作りと本格的だ。これだけで、小鉢いっぱい頂きたいほど美味しい。決してオーバーではなく、こんなトコロテン初めてだ。

 

ヒジキもまた、「春先に、生まれ在所の佐伯の海まで行って採ってきたのを、保存しておいて一年中使う」とのことだ。今回のパスタは、手作りカラスミであったが、時期によっては、海に潜って取ってきた牡蠣パスタになるという。

 

f:id:teruhanomori:20171008145511j:image

手製カラスミと都農トマトのパスタ 

 

ところで、このパスタソースのトマトが物凄く美味しく、「何このトマト?」って、思わず口をついて出た。都農(つの)のトマトということで、その名は私も耳にしていたが、食べるのは初めてだ。本当に美味しい。実は今回、友人が私を都農町に案内してくれる予定だったという。ただ、私の方が西都へ行きたいとお願いしたので、そちらはまたの機会ということになった。ここには、ワイナリーもあるということでそれもまた楽しみだ。

 

f:id:teruhanomori:20171008145533j:image

天ぷらと豆腐ハンバーグ

 

天ぷらは、裏の畑でひとりでに大きくなったカボチャと、通りがかりの畑でサツマイモを収穫中の方に分けて頂いたものだそうだ。ご飯に入っているギンナンは今年の初物とのことで、これまた大ザルの上の栗と一緒に前日に採ってきたという。銀杏と栗のご飯には、アクセントに柚子の皮が混ぜ込まれているのでいい香り。

 

f:id:teruhanomori:20171008152933j:image

 銀杏と栗のご飯 

 

f:id:teruhanomori:20171008152915j:image

 栗

 

時期に応じた自然の恵みを満喫させてくれようと、何から何まで、あちこちに足を伸ばして集めてくれるなんて、まさにこれがご馳走だと感激しつつ胃に収める。

 

今回は量少なめでとお願いしたものの、いつもながらたっぷり用意してくださっていた。平素と違って、たまには胃をびっくりさせてもいいかと、ついこちらも奮闘してしまった。その結果、翌日の朝まで満腹であったが、全然胃もたれしないので助かった。

 

ところで、このカフェのオーナー大賀さんは、酵素やミリンに松葉エキス、切り干し大根に柚餅子からジャムなどなどと、季節折々何でも手作りされている。また、食品だけでなく、着物から転用したサロペットに作務衣まで作ってしまうというからびっくりだ。

 

畳の上にテーブルがいくつか、普通の民家を改装したレストランは、しっとりと落ち着いていて心和む。親戚の家にお呼ばれしたようなリラックスした雰囲気の中で、友人や大賀さんとおしゃべりしながらの食事はとても楽しく、我知らず口もよく動く。一人もいいけど、人と一緒もいいなと感じるひとときだ。宮崎へ行ったら一度はどうぞ!

 

f:id:teruhanomori:20171008145558j:image

Cafe 皇宮の森(こうぐうのもり)

(*お店は皇宮神社の裏手で駐車スペースも有り)

住所:宮崎県宮崎市下北方町5884
TEL:0985-20-8074

完全予約制

*私たちが伺った折に頂いたのは1500円

読後、身体中から元気と勇気と活力が湧いてくる『バッタを倒しにアフリカへ』

『バッタを倒しにアフリカへ』(前野ウルド浩太郎著・光文社新書・2017年)、一体何の本?と題名に戸惑うばかりか、バッタに扮した著者の写真に、単なる面白本か何かと、書店で目にしても手に取ることはなかったこの本も、実は次男からの譲り受けだ。

 

だが、読み始めたらあまりの面白さに、やるべきことなど放り投げてでも読み耽っていたくなる。まったく困ってしまうが、何とか必要な時間との折り合いをつけながら熱中。読み終えた途端、元気と勇気と活力といったすこぶる良い気が、身体中から湧き出てきた。

 

内容は、アフリカでの真面目なバッタ研究に取り組む日々を描いたもので、

 

“本書は、人類を救うため、そして、自身の夢を叶えるために、若い博士が単身サハラ砂漠に乗り込み、バッタと大人の事情を相手に繰り広げた死闘に日々を綴った一冊である。”(P・7)

 

と、まさにこの言葉通り、倍率20倍という難関を勝ち抜き、「日本学術振興会海外特別研究員」の制度を利用して意気揚々とモーリタニアに赴いた一人の昆虫学者の奮闘記だ。

 

しかし、いざ彼の地に渡ってみれば、

“バッタが大発生することで定評のあるモーリタニアだったが、建国以来最悪の大干ばつに見舞われ、バッタが忽然と姿を消してしまった。“(P・6)

 

そんな状態のままでどのように研究を続けるか、工夫の数々が、何ともユニークだ。殊に、満腹になったゴミダマ(正式にはゴミムシダマシ)の観察場面には笑える。”お腹いっぱいに食べたときの振る舞いが人間的で、なんとも言えない親近感が湧いてくる。“(P・141)

 

そんな有難くもない名前の持ち主とはどんな虫なのか、”この虫を雑に紹介すると、親指の第一関節くらいの大きさの角なしカブトムシだ。“(P・135)だそうだが、急遽、バッタが不在の間の研究対象となったこの虫に、こちらも興味を誘われる。「ああ、食った食った。今日は久しぶりのご馳走だったわい」と言いながら(実際はそんなことなど思わないだろうが)、重くなったお腹を抱えヨタヨタと歩く様が見えるようだ。

 

ところで肝心のバッタだが、ようやく見つけた一匹、「サバクトビバッタの孤独相の成虫」の写真のバッタには、哀切さとユーモラスな感じが入り混じっている。“5キロ歩いて一匹しかいない現状では、交尾相手に巡り合うのも大変そうだ”(P・135)に、このバッタの、生まれてからこれまでの人生ならぬバッタ生を想像してしまう。

 

ちなみに、「闇に紛れるバッタの幼虫」(P・41)は、その姿はもちろん虫そのものだが、全体の感じが、あたかも、擬人化しているかのようだ。バッタ生が始まったばかりの幼虫は、イソップ寓話の『アリとキリギリス』のキリギリスみたいに、明日のことなど少しも気にかけず暢気そのものだ。”トゲの生えた植物に潜んで“、カメラを向けた著者に笑いかけているようにも見えてしまう。

 

読むほどに、著者のバッタへの愛情が自分にも乗り移ってくる。だが実際、大量発生したバッタが農作物を食い荒らし、深刻な被害を引き起こすとあっては、可愛いだの、寂しくはないかいだのと、露ほどの同情もしていられない。むしろ、それぞれが孤独のまま、ひっそりとバッタ生を終えることが望ましいだろう。

 

と、まあこのように、モーリタニアでの研究生活が、一見面白おかしく綴られているのでずいぶん楽しそうと思えるが、実際は、様々な面で相当大変だったに違いない。

 

2年の海外研究制度の任期が終了した後も、無収入のまま自力で研究を続ける著者は、若手研究者の育成を目的とした京都大学・白眉プロジェクトという夢のような制度のあることを知り応募する。競争率30倍以上という超難関ではあったが、思いがけず一次審査が通り、二次審査での面接に臨むのだが、最終面接時に京大の松本絋総長(現・理化学研究所理事長)が、彼に労いの言葉をかけたというエピソードがそれを物語っている。

 

モーリタニアに何年目かと聞かれ、今年三年目ですと答えた著者に、

“それまではメモをとったら、すぐに次の質問に移っていた総長が、はっと顔を上げ、こちらを見つめてきた。
「過酷な環境で生活し、研究するのは本当に困難なことだと思います。私は一人の人間として、あなたに感謝します」
危うく泣きそうになった。”(P・299~300)

 

バッタをただ薬剤で防除するのではなく、生態を知ることで、被害を未然に防ぐための対策に活かせないものかと奮闘する著者に、この言葉は何と大きな励ましになることかと、読むこちらまで嬉しくなる。

 

アフリカに腰を据えて研究したいという熱意と本気度が伝わるからこそ、お金を研究所に呼び込むことのない著者ながら、モーリタニア・バッタ研究所のババ所長からも好意を抱かれ、期待もされるのだ。

 

ババ所長の言うように、

“バッタの筋肉を動かす神経がどうのこうのとか、そんな研究を続けてバッタ問題が解決できるわけがない。誰もバッタ問題を解決しようなんて初めから思ってなんかいやしない。”(P・81)

 

と、主に実験室だけで研究を進める先進国の研究者たちと、現実問題としてバッタの悩みを抱えている国との間には溝が深すぎる。そんなところに現れたバッタ博士である著者には、なんとしてでも研究をやり遂げて欲しいと、協力を惜しまぬのも頷ける。そして、ウルドという名誉あるミドルネームまで、授けてくれた。

 

ところが、「~の子孫」を意味するウルドは、その後モーリタニア政府が、
“「みんな確実に誰それの子孫なので、ウルドいらなくね?」という根本的な指摘をし、ウルドを名前から削除するようにと、法律の改正案が出された。”(P・361)ということで、ババ所長さえも改名せざるを得なかったそうだ。

 

それにしても、著者はよく頑張っているなと思う。“億千万の心配事から目を背け、前だけ見据えて単身アフリカに旅立った”(P・6)だけでは、棚からぼた餅など落ちてくるわけがない。ましてや、自分の希望を繋ぐものとしてのバッタがいないからといって、寝て待ったたところで、果報など永遠にやっては来ない。“自然現象に進路を委ねる人生設計がいかに危険なことか思い知らされた。”(P・6)と著者も言うように、何しろ相手は自然だ。

 

しかし、そこで挫けたり、くさったりするのではなく、自分の夢を叶えるため、どのような戦略が必要かを考え抜く。それこそが、まさにファーブルたらんとするバッタ博士の真骨頂だ。読了後、「いざ我も続かん」と、ずいぶん勇ましくなっている自分にびっくりするほど、元気漲る本だ。