照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

ずらりと並んだ石仏に心安らぐ思いー白毫寺(奈良)

白毫寺まで、奈良町から歩いていった。ふうふう言いながら石段の下まで辿り着くと、山門までの風情ある佇まいに、来た甲斐があったと急に元気になる。境内に入ってお参りを済ませると、名高い五色の椿を眺め、次いで「石佛の道」へと進む。

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白毫寺への石段

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咲き始めたばかりの五色椿 

並んだ石仏たちが愛らしく、心安らぐ思いがする。とりわけ、上部にある三体のうち、真ん中の仏さまの笑顔が優しく、これぞほっこりという感じだ。阿修羅像を思わせる右側の仏さまもいい。

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石佛の道

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上部に三体あるうちの真ん中の仏さま

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阿修羅像を思わせる右手の仏さま

次に、ご本尊の阿弥陀如来様を拝観する。(撮影禁止)ここには、閻魔様もいて、そちら側に目をやった途端、(閻魔様コワイ)と呟いてしまう。更に、閻魔様が見ていると思うと、お参りする姿勢まで正してしまう。文殊様の前では、どうぞ知恵をお授けくださいと、誰もいないのを良いことに、声を出してお願いしてみる。

これまでは、寺や神社を訪ねた折も、何か願いごとをすることはなく、ただ手を合わせるのみであった。だが今回は、石仏たちのおかげで心が寛いだまま宝蔵に上がったためか、仏像たちにも声をかけたい気分が続く。

晴れ晴れとした思いで外に出て、その辺りを一回りしてみれば、紅白の梅がちょうど満開だ。また、ここは高い場所に位置するだけあって見晴らしが良い。奈良市内が一望できるばかりか、生駒山信貴山と、遠くの山々までよく見える。ちなみに、興福寺五重塔は、ここから見ても美しい。

かつて奈良には、東大寺の七重塔をはじめ、至るところに塔がそびえていたというが、さぞかし見事だったろうなと思う。塔は間近で見るのも良いが、少し離れたところから見ると、ずいぶん優しく感じられて、また違った味わいがある。

景色を眺めた後で、もう一度石佛の道に戻って石仏たちに別れを告げる。そして、弾む気持ちのまま、結局、帰りも奈良町まで歩いた。それにしても、こんな贅沢に時間を使えるのは、奈良にたっぷりいられるからだと嬉しくなる。まさに休暇に相応しく、これから先も、旅はこのようでありたい。

 

飛鳥を歩くー高松塚の壁画に感激

橿原神宮前駅から明日香村内周遊のかめバスに揺られ、まずは「石舞台」に向かった。6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれているこの古墳は、想像していたよりずっと可愛らしかった。

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石舞台

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横から見た石舞台

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石舞台内部

ちょうど4ヶ月前にモンサント(ポルトガル)で、巨大な石を利用した家々を見てきたばかりなので、余計にそう感じたのかもしれない。だが、そこいらじゅうに巨石がゴロゴロしている岩山のモンサントと違い、これだけの石(花崗岩)を、実際ここまで運び、墓として組む苦労は大変なものであっただろうと思う。ちなみに、その方法が案内板に説明されているが、その知恵に感心するばかりだ。

次のバスを待つ間、駐車場横の農家レストランで食事をする。古代米カレーとシャキシャキした大根サラダのセットを頂く。どちらも美味しい。暖かな日曜日とあって人出も多く、店内は大賑わいだ。1階の土産物屋さんでは、古代米に唐揚げなどのついたお弁当も販売しているので、外で食べるのも良い。芝生で、持参のお弁当を広げている家族連れも多い。

再びかめバスに揺られ、のどかな田圃道をゆく。橘寺を眺め、天武・持統陵を過ぎると程なく高松塚のバス停だ。ここから古墳までは少し歩く。こちらでも家族連れがピクニックの最中だ。古墳の周囲をグルリと回ってから、高松塚壁画館へ行く。

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高松塚古墳

これほど見事に、描かれた当時のままに色が残っているなんて、と、ただ驚くばかりだ。もちろんここにあるのは、"原寸・原色で再現した壁画"で、本物ではない。それでも凄い。

すっかり感心し、次いでキトラ古墳まで足を伸ばすことにした。飛鳥駅行きのバスを待つよりはと、歩いて向かった。こちらキトラ古墳の周辺も、かなり広い範囲に渡って整備されていて、昔風の家なども再現されている。

この国営飛鳥歴史公園には、昨年9月オープンの「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」というとても立派な施設もあって、おまけに無料だ。

やはり、キトラにも来て良かったと、帰りは足取りも軽い。駅に向かいながら、再び右手に高松塚古墳を見る。両方ともごく近くにある。(但し、歩くと案外距離がある。)

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田圃の向こうに高松塚古墳 キトラからの帰り道

それにしても、どちらも保存状態も良いままに、よくぞ発見されたものだ。"地元の人が、墳丘の南斜面で作物貯蔵用の穴を掘った"のが発見のきっかけだそうだが、その偶然がなかったら、そのままひっそりと眠り続けていたのかと思うと、改めて感慨深い。

しかし、飛鳥京がなぜここに置かれたのか。持統天皇が、この地に勢力があった蘇我氏の血縁であったからとか、幾つかの説を読んでも、ずいぶん奥まった地に都をおいたものと、やはり不思議な感じは残る。私の中に、古代の都のイメージがどうにも湧いてこない。そしてまた、なぜ飛鳥にと最初の疑問に戻ってしまう。

それにしても、飛鳥は良いところだ。次回は、飛鳥駅から、キトラ古墳高松塚古墳だけを回るだけでもいいかなと思う。それとも、亀石や橘寺の方まで、もっとじっくり歩いたなら、何か感じることがあるかもしれない。また来よう。

 

「せっかくだから・・・」という考えは捨てることにした

「せっかくだから・・・」、という考えは捨てることにした。せっかくだからあちこち回らなければとか、せっかくだからあれもこれも食べてみなくてはとか、もしくは、せっかくの好意を無にしてはいけないからと、自分が欲しないことでも無理に受け入れてしまうとか、時に応じていろいろな場面がある。でも、止めた。

奈良に来て4日目の金曜日は、マッサージを受けて身体が軽くなったものの、翌日の土曜日も、朝からやたら眠い。睡眠は十分のはずなのに、食事の後も瞼が下がってくる。東大寺のお水取りの時期ともあって、連続してホテルが取れなかったため、この日は別のホテルへ移動しなくてはならない。

あまり動きたくないので、チェックアウトした後カフェで一休み。宿泊予定のホテルに荷物を預けた後も、カフェのはしご、その合間に昼食を摂ったりと、チェックインの時間までを何とかやり過ごした。そのおかげで、ホテルの部屋に入った頃から、だんだん調子が良くなってきた。そして、ベッドに寝転びながら自分の行動をつらつら考えてみた。

奈良に来てから、飛ばすつもりはなかったものの、「せっかくだから意識」のスイッチが入りっぱなしで、ずいぶん身体に負担がかかっていたのがわかる。着いた日の食事からして、常に比べれば多めであった。翌日はややセーブしたものの、3日目は、残したら悪いかなと無理して胃に収めた。

せっかくだからと張り切って歩き、せっかくだからと作ってくれた人を慮りすぎて食べ過ぎる。おまけに、せっかくだからとビールまで頂いた。その結果、私の肝臓はオーバーワークで、身体の疲れを修復するところまでいかなかった。それが、二日間に渡るやたら眠い反応として現れた。つまり、無理するなという身体からの信号だったのだ。

必要のないものまで抱え込もうとする「せっかくだから意識」って、いうなれば欲だ。時間とお金をかけた分、それに見合う行動をしなければもったいない、でなければ損だというケチな考えが底にある。

好意を受ける場合だって同じだ。せっかくなのに断ったら悪いという底には、良い人に思われたいという欲が働く。それに、断る方がエネルギー消費が大きいので、受け入れる方がずっと気楽だ。頂いた物を、ありがとうという言葉の裏で、こっそり捨てることだってできる。だが、私にそれは苦手だ。それが食べ物なら、せっかくの心遣いを受け取った以上無理してでも食べてしまう。

でも実際は、もったいどころか、重さとなって身体にのしかかるだけなのだ。それに気づいたので、この際、「せっかくだから意識」は捨てることにした。そしてこれからは、自分が本当は何をしたいのか、どこに行きたいのか、何を食べたいのか、などとその都度検討して、心が望むことだけに目を向けるつもりだ。

 

 

 

 

 

 

"鎌倉の名刀を思わせる見事な建築"という言葉に惹かれてー長弓寺(奈良・生駒市)

"鎌倉の名刀を思わせる見事な建築"(P・245)と、『宮大工と歩く奈良の古寺』の著書・小川三夫さんに言わしめる長弓寺って、どんなお寺だろうと出かけてみた。

"訪れる人も少なく、休日もひっそりとしている"とあるが、朝九時半頃に着いてみれば、観光客は私くらいのものの、地元の方々が、参拝のためそれぞれ間をおかず急な階段を上って来られる。犬の散歩コースにもなっているようで、ワンチャンも楽しげに走り回っている。地元に密着しているお寺だ。

"地面にはったようにしっかりしていて、屋根はのろく、ゆったりしています。穏やかです。綺麗だと思いますね。
これが地方に行くと、柱の長い、屋根が威張ったようなものじゃないと受け入れられないんです。家を目立たせたがるというのか。"(P・248)

確かに"威張った"感は無い。だが、スッキリと美しいその姿に、威厳はある。

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長弓寺 本堂

"この縁の下の束を見てください。ゆるく傾斜させてあるんですね。地面の傾斜をそのまま生かして造ってあるんです。亀腹も正面に向かって厚さが違うんです。・・・今だったら地面を均してしまいます。そういうことをしないんですね。地の利をちゃんと活かして、誰も気づかないかもしれないのに、細部に気を遣い、手間をかけてあります。そういう心遣いが、美を生むんですね。"(P・252)

この本で教えてもらわなかったら、そのような配慮には全く気づかないところであった。それにしても、昔の工人たちの仕事ぶりに、またもや感心させられる。別の章での、山で南向きに生えていた木は、そのまま建物でも南に当たる側に使われるとかの話をも思い合わせながら、すべてを自然に即すというやり方に敬服する。物の活かし方を、十分心得ていなければできないことだ。

ちなみにこの寺は、"解体修理のときに屋根裏から銘の入った板が出てきて、それで鎌倉の建築だと確信されて国宝に指定された"(P・254)そうだ。そして、その板には工人の名が入っており、大工として名前が確認された、日本最古の人になるという。

小川三夫さんは、想像になるが、"おそらく渡来系で、飛鳥や奈良の時代から鎌倉まで代々ずっと大工技術を受け継いできた家系の人じゃないか"(P・254)と、推測されている。きっと、技術を継承し、更に独自の美学を加えてきたのかなとも思う。

"この建物全体の、線の持って行き方がすばらしい。"(P・249)とおっしゃる通り、本堂を側面から見ると、その線が本当に見事だ。檜皮葺きが、これまた美しく、私の中には、神社のようなイメージも湧く。

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長弓寺 本堂側面

帰りは、ワンチャンを連れた方の案内で、裏山を登ってからバス通りまで出た。来る時下車した真弓4丁目の、一つ先の停留所であった。

この長弓寺は、近鉄学園前駅北口から6番のバスに乗って行くのだが、日中は10分おきとバスの便も良い。生駒市になるが、近鉄奈良駅からもとても近い。奈良に行ったら、一度は訪ねたいお寺だ。

アレレ?岡本太郎さん、五重塔についてこんなこと言ってたんだーちょっと反論

手放す前にもう一度読もうかと、『美の世界旅行』(岡本太郎新潮文庫)を旅先に持ってきた。それまであまり関心を持てなかった岡本太郎の世界に、グイグイ引き込まれる本だ。その世界観の中心を成している考え方、芸術や文化をどう捉えていたかが、本当によく分かる。

ところが、アレレ?こんな事言ってたんだ、と引っかかる箇所もある。それがたまたま、今回目の前にしている興福寺などの五重塔が、例としてあげられている。私が奈良を訪れるたび、その見事さに感心して見上げる塔だ。だが、岡本太郎は、

"法隆寺興福寺をはじめ、奈良に数々ある五重塔は、観光資源として人をひきつけているが、日本の伝統、その精髄のように思われている。・・・だがあれはまったく日本のものではない。実はネパール原産だ。・・・つまり、ただ保存がよかったというだけのこと。それなのに何であれを日本美の代表、誇りのように思い込んでいるのか。馬鹿馬鹿しい。"(P・50~51)

と切り捨てる。そして、本家ネパールではどうであるかを、

"ネパールには今でも生活の中になまなましく五重塔が建っている。それはまさに、奈良の五重塔の御先祖様だった。"
と言う。(*但し、旅行された1971年当時の状況)

この本全体に一貫として流れる主張に耳を傾けていると、その言わんとすることも分からないではない。が、それでもこの点はすんなりとは認め難い。

この本の解説者ヤマザキマリさんも、岡本太郎の意見に大いに共感されて、次のように述べている。

"ネパールの五重塔と日本の五重塔についての考察など、こういうことをはっきりと書いてくれる人がいた事に、私のような強い郷土愛を持つわけでもなく、自らのアイデンティティの曖昧な人間は、読みながらついホッとしてしまうのだった。"(P・283)

が、このご感想にもエッと言う思いが残る。

そしてこのお二人に、でもね・・・。"ただ保存がよかったというだけのこと。"とおっしゃるが、日本の気象条件を考えると、何の工夫も無いまま保存状態が良いなんて事、有り得ないでしょうと心の中で呟く。古の工人たちの知恵が、次の時代次の時代へと、時には手探りであったとしても、引き継がれてきたからこそ今に残っているのだ。

仏教伝来に伴い、建物でも彫刻でも、オリジナルは何でも大陸から渡ってきたのは確かだが、それを、この国の風土に合うよう工夫してきたのだ。形は同じでも、もはやそれは別モノである。仏像だって平安時代に入ると、ギリシアの面影を残した奈良初期の頃とはだいぶ異なっている。そこには、"御先祖様"を超えて、日本人独自の観点が加わっているのだから、伝統と呼ぶに相応しいと思う。

多分、岡本太郎さんは、民衆の暮らしから大きく隔たっておすまししたような姿に、激しく違和感を覚えたのではないかと推測するものの、やはり五重塔は美しいと、今、奈良に居て改めて思う。

 

身体が疲れたなと感じたら早め早めのメンテナンスが大事

金曜日は、何もしない日にしようと決めた。休養日にはちょっと早いんじゃないという気もするが、身体は、自分が自覚する以上に疲れている。早めのメンテナンスが大事だ。

奈良にはしばらく滞在するのだから、ゆっくり見て回ろうと思いながらも、つい張り切ってしまう。そこに、こちらへ来る前からの疲れが重なったのか、朝から身体の凝りを感じたので無理はしないことにした。

普段は、自分で体操したり、マッサージしたりして凝りを解消するのだが、今回はプロにお願いすることにした。足ツボから始まったのだが、これだけで既に気持ち良い。次いで全身を揉んでもらいながら、その心地良さに、さすが自分でやるのとは違うなと感心する。

店を出ると、すっかり軽くなった身体に、気分も一新。食事処を探しがてら、ちょっと散歩してみるかとなった。ならまち一帯を歩き回ってから、興福寺まで行ってみる。いつもながら見事な五重塔を見て、次は、坂下にある三重塔の前に立つ。雰囲気がまるで異なって、こちらは柔らかな感じだ。

それぞれに味がある建物を後にしてホテルへの帰り道、あちこち足を伸ばさなくても、毎日、この奈良公園周辺をただ散歩するだけでも良いかなと思えてくる。

せっかくだからと欲張って見学して回ったところで、「行った」や「見た」に過ぎない。これでは、物を一杯に詰め込んだ部屋と同じで、頭の中が、「知っている」ことでごちゃごちゃになるだけだ。この地に立って、遥かな時代を想うなんて到底できない。あと二週間をどう過ごすか、もう一度考えてみよう。

 

吉野葛100%の葛しるこに胃が喜ぶーならまち散策

「ならまち」(元興寺の旧境内を中心とした古い町並み)をじっくり歩くのは初めてだ。奈良市観光協会のホームページに、"江戸時代 の末期から明治時代にかけての町家の面影を今に伝える"とあるが、まさにその通りで風情がある。

 

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薬屋さん

 

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食べ物屋さん

 

通常、「古い町並み」として雑誌やポスターなどで紹介されていても、規模はそれほどでもなく、実際に歩くと、アレッもう終わっちゃったのと少々物足りなさを感じることが多い。だが、奈良はさすがにかつての都、そぞろ歩きをたっぷりと楽しませてくれる。

 

足元に目をやれば、マンホールの蓋まで凝っている。

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マンホールの蓋

 

お店をやっている家ばかりか、普通のお宅でも、雰囲気に沿うよう配慮されているのか、さりげなく花など活けておられる。

 

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中央の花活けには沈丁花

 

そんな町家の一つに、「葛しるこ」とあって足が停まった。吉野本葛100%の謳い文句に、せっかくなので頂いてゆくことにする。店内に入れば、黒光りして時代を感じさせる柱に梁。160年前の建物とのことだ。

 

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佐久良 さん外観

 

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店の内側

 

葛しるこを注文すると、先ずは葛菓子とお茶が出される。ほのかな甘さの干菓子は、口に含むとホロホロと消えてゆく。美味しい。

 

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葛菓子

 

 葛の風味が変わらないよう、注文を受けてからの手作りということで、しばらく待ってから、白玉入りの葛しるこ登場。これまた、優しい味わいだ。疲れ気味で体調が優れない時などに、このようなものを口にしたら、身体がずいぶん喜ぶに違いない。

 

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葛しるこ

 

私が子どもの頃は、風邪をひいたり、お腹の調子が悪かったりすると、決まって葛湯を飲まされた。砂糖もあまり入れず、ただドロッとした熱い飲み物は、あんまり美味しいとは思えなかったが、今となると、ずいぶん懐かしい。

 

そんなこんなを思い出しながら、葛しること、細切りの塩昆布を交互に頂く。これまでも何度か奈良に来ているが、いつも忙しなく寺巡りをするだけで、このような場所でゆったりすることなどなかった。が、それでは片手落ちであったとようやく気づく。

 

今回は、むしろ町歩きをメインにしてみるつもりだ。何処でも、店頭のメニューを眺めているだけで、ワクワク度が高まる。これから、日々の食事が楽しみだ。