照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

大地から溢れ出る喜びー小花たちの合唱しているような姿に健気さを感じる

ようやく春爛漫という感じになった。1ヶ月ほど前は、冷たい空気の中に春の兆しを見つけては喜んでいたが、今や探さずとも、紫や黄や白の一群があちこちから目に飛び込んでくる。

靖国神社にあるソメイヨシノの標準木は、既に満開宣言が出たというが、私の散歩コースの桜はどれもまだまだといったところだ。

でも、根本の辺りのさまざまな小花たちは、合唱しているかのような楽しげな雰囲気を醸しだしている。それはあたかも、まだ蕾が多い桜の寂しさを、自分たちで精一杯補おうとしているようにも見えて、健気ささえ感じられる。

桜ばかりがクローズアップされるけど、注意深く窺っていると、どの花からも春を寿ぐ声が聞こえてくる。大地から溢れ出る喜びが伝わってきて、春だなぁ〜と思う。

 

 

"家庭料理はごちそうでなくていい"に共感する


"家庭料理はごちそうでなくていい。ご飯とみそ汁で十分。"(The Huffington Post・3/26付)という見出しに目を引かれた。http://m.huffpost.com/jp/entry/15561352

提唱されているのは、料理研究家の土井善晴さんだ。

"献立の基本は一汁三菜。
私たちはあまりにも長いあいだ、この思い込みにとらわれてきたのではないだろうか?"

確かに、自分がかつて作っていた食事は、自分が子どもの頃の食卓と比べれば、日々がハレの日のようであった。

極端に偏食だった私は、料理にはさほど関心がなかった。でも、それを直したいという思いもあって、一人暮らしするようになってからは料理に取り組んだ。手本としたのはもっぱら本であった。

そこには一汁一菜という考えはなく、献立の例には、主菜の他に、副菜が数種類あったと記憶している。そのため、いつしかそれを基本あるいは普通と思い込んでしまったのかもしれない。おまけに、比較的簡単な野菜類のおかず(例えば野菜の炊き合わせとか、キンピラゴボウ等)は、主菜の座には物足りないように思われた。

だが、"家庭料理はごちそうでなくていい"に、今となってはまったく手遅れながら、本当にそうだなと共感する。肉も魚も、メインに野菜を使ったとしても手の込んだおかずは、やはりハレの日のごちそうに相応しい。ケ(日常)の日の食卓は、もっとアッサリで良かったのに、どうしてあれほど張り切ってしまったのかとさえ思う。

(今日のごはんなあ〜に?)と、楽しみに待っている家族の顏を浮かべると、ついつい喜ばせたい意識が働いてしまったのだろう。でも、もっとハレとケの区別をつけてもよかったのだ。

安易に、手間もかかる見栄えの良いごちそうに頼らず、知恵を絞った食卓にすれば、食事の支度という家事の大きな部分を省略できて、疲れ切ることもなかったのではないか。でもそれ以前に、いろいろな面で、家族の意識改革が必要だなとも思う。私の場合過去に、粟や稗入りご飯に野菜中心のおかずは、家族の不平を招いて、結局は止めてしまったという苦い思い出もある。

現在の私の食事は、簡単に準備できて、自分が美味しいと思えるが基本だ。ちなみに私の朝食はスープご飯だが、毎日同じ形態でも、使用する野菜でアクセントがつくので、全然気にならない。実際、誇張ではなく、食べるたびああ美味しいと思う。

毎日、今晩のおかず何にしようとお悩みの方は、この際、家族を巻き込んで、これまでのおかずへの意識を変えてしまってはどうだろうか。きっと、暮らし方すべてへの見直しにもつながるに違いない。食事に手間をかけるばかりが、家族への愛情ではない。

"これは貴人の行楽の図である"ー高松塚壁画の松本清張氏考察になるほどと思う

『遊古疑考』(松本清張河出文庫・2007年)は、(新潮社・73・9を底本とする)とあるように、書かれたのは40年以上前だが、内容が非常に興味深い。

考古学及び古代史におけるさまざまな研究論文を丁寧に読み込み、場合によっては研究者に直接尋ねたりしたうえで推測をなさっているのだが、さもありなんと読みながらグイグイ引き込まれる。

殊に、高松塚壁画に関しては、多分その見方が妥当だろうなと思わせられる。

"檜前(檜隈)の地の特殊性"(P・368)から、
"高松塚の被葬者が誰かという比定は興味の深いことだが、よほどの確証がない限り、これはつつしまなければならない。・・・
軽率には確言できないが、わたしはこの高松塚は檜前に住むいわゆる帰化人集団によって築造され、被葬者もその系統の族長であろうと推定している。"(P・370)

とあって、それに対していろいろな角度からの、自分が根拠とした説などをあげておられる。

"高松塚壁画は、西壁と東壁とに男子群像と女子群像とが棺を置いた床を隔てて相対して描かれている。それが四角ばったお供の図ではなく、きわめて楽しい雰囲気の姿態である。文武朝の儀仗にふれた岸敏男もこれに葬儀規定にない持物があるのでさすがに「葬祭と結びつけるにはなお検討を要するので、ここはともかく威儀を示すという理解にとどめておこう」(前掲「壁画古墳高松塚」)と書かざるを得ない。当然で、これは貴人の行楽図である。"(P・374〜5)

続けて、
"墳墓の壁画といえば何でも葬祭儀礼や黄泉の世界や呪術性に解さなければ承知できない一部学者のかたくな理解は困ったものである。そんな暗さは壁画のどこにもない。"(P・375)
と、苦言を呈しておられる。

先入観に基づく見方を戒める言葉は他にも出てくるが、まったくその通りだと思う。素人からすれば、どこをどうやったらそんな結びつきが考えられるのかとびっくりする例もある。でも、"かたくな"に思い込んでしまったら、それに添うような解釈に突き進んでしまうのだろうなと思う。

そして、古代史や考古学の学問的知識のない私からすれば、もっと単純に考えた方が、解決への糸口が見つかりそうなものなのにとも思う。それほど容易いことではないんだよと一喝されるかな。せめて、もう少し知識もつけて、古代の世界を垣間見たいものと思う。

遠い時代の事は、解明されていないことが多い分、あれこれ想像を働かせる余地があるので楽しい。本を読んでいると、謎解きをしているような面白さがあって、自分もその一員に加わっている気にさせられる。

 

 

物の置き場所を極端に減らしてみたら本当に必要な物だけが残った

昨日は、朝から、クローゼットに押し込んでいた荷物を、さあ~やるかと、勢い込んで所定の位置に戻す作業に取り掛かった。アララ?、意気込みの割には何ということもなく、アッサリ終わってしまった。

元に戻すといったところで、以前は4個のカラーボックスが1個になったのだからすぐに片付く。そこには日常的に使用頻度の高い物だけを置き、それ以外の物は、中身を処分して空になったプラスチックケースに「とりあえず」入れて、またクローゼットに逆戻りだ。

但し、「とりあえず」が曲者なので、もちろん明日から数日かけて吟味し、そのうえで処分するかどうか改めて決める予定だ。つまり、「とりあえず」にいつまでと終了日を設定する。

今手元にある物は全て、厳選して残したつもりであったが、本当に必要かどうかぐらついてきている。それは、今回、収納場所をあえて少なくしたことで、自分の中でようやく踏ん切りがついた表れだと思う。

結局、置き場所があればあるほど物は増えて、処分するという決断が先延ばしされるのだろうなと思う。そして、「とりあえず取っておこう」、「とりあえずこのままにしておこう」、と、「とりあえず」という猶予期間をなし崩しにして、気づいたら手がつけられない状態になっているのだ。

自分がいなくなった後、誰が始末するの?と考えれば、当然、さっさと処分した方がいいに決まっている。だいたいが、日々の暮らしに必要な物ってそれほど多くはない。大半を処分してみると、それがよく分かる。

また私の場合、物は大事に使うが、愛着があるかといえばそうでもない。気に入った物はアクセサリーにしろ服にしろ、日常的に使用しているので、年ごとに劣化してゆくからいつか寿命がくる。愛着云々よりも、使用に耐えなくなったらそれまでだ。

それに、人生の持ち時間を考えると、身の回りはいつでもきちんとしておきたいという思いが先に立つ。

ともあれ、物が少なく、かつ整理整頓がしてあれば、探し物に煩わされることもなく、掃除だって楽だ。ついでに、毎日のチョコチョコ掃除を習慣づければ、季節毎の中掃除はおろか、年末の大掃除だって不要だ。

ただ、ダイエットと同じで、この状態を維持できるかどうかが鍵だ。斯くいう私だって、ここに越してきてちょうど15年、増え続けた物を整理して、再び出発点に立ち戻ったというところで、偉そうなことは言えない。

そして付け加えるなら、このように極端に物のない暮らし方、私には合っているけれど、もちろん良し悪しではなく、単に好みの問題だ。シンプルが好みの方には向いている。

 

奈良でおすすめの店ー山の辺ファームさんのジャムはすっごく美味しい

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山の辺ファームさんのイチジクジャム

奈良・山の辺ファームさんのジャムは、すっごく美味しい。正直言うと、これは想像以上であった。そもそも、旅先でジャムを購入したことなどこれまで一度もなかったのに、これも出合いだなと思う。

八朔ジャムをちょこっと土産としてあげた方からその翌日、「パンにつけて食べたら、絞ったミカンそのままという感じでとっても美味しかった。ヨーグルトに入れても良さそう」との感想を頂いた。

それでは私もと、早速プレーンヨーグルトを買ってきた。自分用のはイチジクジャムで、先ずジャムだけを味見。ああ、本当だ。瑞々しい。ヨーグルトと合わせると、それが更に引き立つ。大人のジャムとあるだけに、甘さも控えめだ。

こんなに美味しいなら、もっといろいろな種類買ってみても良かったのにと、今さらながら残念に思う。今度奈良を訪れる時は、山の辺ファームさんで果物やジャムを購入して、ホテルの部屋で食べることにしよう。

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葛菓子

奈良のおすすめは、こちらのお店の他に、吉野本葛100%使用の佐久良さんだ。この葛菓子(干菓子)は上品な甘さで、口に入れるとホロホロと解ける感じが好ましい。お土産にしようと帰る前の日に葛菓子を買いに行ったら、あいにくお休みであった。

前日も店の前を通ったのになぜ買わなかったのかと悔やんだが、代わりに、山の辺ファームさんのジャムを手にしたのだから、出合いは面白い。でも、佐久良さんへもまた伺いたい。

*奈良おまけ情報
近鉄奈良駅前から東向商店街に入ってすぐ右手にあるサンマルクカフェは、店内が奥に広く、静かで居心地が良い。昼時を外せば案外空いていて落ち着けるので、カフェラテのMサイズ(コーヒー共にSは無し)を飲みながらまったりしていた。

カフェは、他にも幾つかのチェーン店(スタバやドトール、他)及び奈良らしい雰囲気の店といろいろあるが、気兼ねなく長居したい時はここがおすすめ。ちなみに2杯目は、レシートを提示すれば、この店以外のサンマルクカフェでも半額だ。JR奈良駅近くの三条通りにもお店あり。

近鉄当麻寺駅そばの中将堂さんのよもぎ餅もおすすめ。月ヶ瀬の土産物屋さんの草もちと甲乙つけがたいほどのよもぎの香り高さ。

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中将堂さん外観

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月ヶ瀬 土産物屋さんの草もち

当麻寺門前にある薬庵(蕎麦屋)の蕎麦もちも美味しい。

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 蕎麦もち もちの上の蕎麦の実が香ばしい

邪馬台国はどこであったかー絹織物に注目した説を初めて知ってなるほどと納得

邪馬台国はどこであったか、九州と近畿の他に、東遷説があることを、『古代史の窓』(森浩一著・新潮文庫・平成10年)を読んで初めて知った。東遷説とは、最初は九州にあったが、やがて近畿に移ってきたという説で、著者の森浩一さんはこの説を推している。

その手がかりとなるのが、魏志倭人伝に書かれている献上品の絹織物に関しての、"養蚕をおこない、糸をつむぎ、細かな・・・"(P・88)とある記述だ。そこに、『絹の東伝』(布目順郎著・小学館)という古代織物の研究者の本を参照されて、

"弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、つまり四世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。布目氏の結論はいうまでもなかろう。倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり・・・"(P・90)

には、なるほどと思わせる説得力がある。この部分だけでなく、この本を読んでいると、解明されていない事は、性急に自らの主張に沿うように結びつけるのではなく、慎重にさまざまな方面からじっくり検討する重要性を、改めて教えられる。

それにしても、絹織物がポイントとは。確かに、"ヤマタイコク奈良説をとなえる人が知らぬ顔をしている問題がある。絹の東伝である。"(P・89)と著者が指摘するように、絹を素通りした説だけを読んでいれば、私などが知ることはない。

これは、古代史ばかりか、今起こっている物事を知るうえでも大事な視点だ。自分の解釈に合わせるために、あえてある部分を無視するなどは、案外誰もが陥りやすいところだ。

今回は、古代史関連の本を4冊ほど借りてきたが、最初からいい本に出合ったと嬉しくなる。

著者があとがきで、

"本の題は短い方がよい。というわけで『古代史の窓』となった。だが考古学の私が古代史への誘いを書けるわけがない。だから縮めず私の真意でいうと「考古学から窓の向こうの古代史を垣間見る」といったところだ。"(P・242)

と謙遜されているが、読む者こそ、懇切丁寧な説明付きで、古代を垣間見させて頂いているという感じだ。書かれたのは30年近く前だが、ともかく読み応えがある良い本だ。

閑静なお屋敷街は散歩するには良いけれど住みたいかとなるとちょっと考える

志賀直哉旧宅は、奈良・春日大社近くの閑静な場所にあった。昭和の初めに住んでいたというから、既に100年ほど前になるが、この辺りに漂うゆったりとした雰囲気は、当時もそうであったろうなと感じさせる。

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志賀直哉旧宅前

住む周辺の感じって、案外気分に影響する。自分が暮らすスペースが狭くても、時々このような場所を散歩していれば、心もふっくらとしてくるに違いない。

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道路先の右側が志賀直哉旧宅

でも、広い敷地に建つ瀟洒な家は、眺める分には素敵だが、維持するのも大変だろうなと思う。おまけに、豪邸が立ち並ぶ辺りというのは、たいがいは駅から離れている。

私などがそのような場所に住まうなど、どうひっくり返ってもできないことで、もちろん最初から望まない。蛇足ながら、イソップ童話の、「あの葡萄は酸っぱいに違いない」と諦める狐の心理からでは決してない。散歩しながら、時々目の保養させて頂くだけで十分だ。

年齢が増すごとに体力も衰えてゆくことを思えば、やはり自分が住む場所は、駅近くで、買い物に便利な所がいい。できれば散歩コースに、このような素敵なお宅などがあると尚良い。ついでに言うと、部屋は、自分に必要なほどほどのスペースがあればいい。狭くても、物が無ければ広々と感じる。掃除も楽だ。

そんなことを考えつつ奈良公園の方へ戻ると、池のほとりで、結婚衣裳をつけたカップルが2組ほど写真撮影をしていた。さらにうらうら行くと、せんべいをねだらず、梅の木の下で日向ぼっこする鹿を見てホッとする。神様のお使いである鹿には、観光客の後など追わず、ゆったりと構えていて頂きたい。

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梅の木の下でのんびり日向ぼっこする鹿

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興福寺五重塔

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興福寺 三重塔