照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

ヤドリギの知恵から自然を想う

ヒレンジャクという渡り鳥が、ヤドリギの実を食べる話を興味深く聞いた。NHKラジオ第一放送の朝5時からの番組内でのことだ。私は、朝食やお弁当の支度をしながら、天気予報を聞くため朝6時頃までラジオをつけている。各地域の話題を、その地に住む方が定期的に知らせてくれるこのコーナーはなかなか面白い。金曜日は海外地域情報で、これもご当地の方だからこそという話もあって楽しみだ。
 
ヤドリギに実がなることすら知らなかったが、植物なら当たり前のことだ。他の鳥はこの実を好まないので、食べるのは主にヒレンジャクということだ。情報を寄せたのは愛媛県にお住まいの方だ。この方は、どんな味がするのか興味を持たれ、ご自分も、直径1センチほどのヤドリギの実を試しに口に入れてみたそうだ。堅い種の回りの寒天状の部分を食べたそうだが、特に味はしなかったという。
 
ヒレンジャクが食べた後の種は、消化されずにそのままでてくるが、粘り気があるため、納豆が糸を引くような状態のまま鳥のお尻についているという。鳥が飛んでいってどこかの木にその種がくっつくと、そこで発芽するようだ。桜や榎とか皮が柔らかい樹木が好まれるという。長い歳月をかけて生み出されたヤドリギの生き残り策であろうが、まったくたいしたものと思う。逆に考えれば、自分の内部に根を張られ、養分や水を吸い取られる方は、大迷惑であろう。言葉が話せたら、(近寄らないで、ヒレンジャク)と言うかもしれない。
 
以前『植物のあっぱれな生き方   生を全うする驚異のしくみ』 (田中修・電子書籍版)を読んだが、植物が生き延びるための知恵には本当に感心させられる。花を見て人は、香りの良さや色の美しさに無邪気に喜び、もしくは嫌な匂いの花に顔をしかめるが、植物からすれば、人間の感覚など意に介していないということになる。種が続いてゆくことだけが大事なので、いかにしてその手助けになる鳥や虫たちの気を引くかに全力を注ぐ。
 
野生植物が、どのようにして食用として栽培されるようになったかという観点から、植物を考えるには、『銃・病原菌・鉄 (上・下) 』(ジャレド・ダイアモンド草思社文庫)も、興味深い本だ。 ピュリッツァー賞を受賞したこの本を、読まれている方も多いと思う。”1万3000年にわたる人類史の謎”を解き明かすというように、文明の歴史全般に渡って記述されているので、だいぶ読み応えのある量だ。だが、一度読み始めると、その面白さにぐいぐい惹きこまれてしまう。野生動物を、家畜化してきた過程もなかなか興味深い。植物が生き残りをかけて進化してきたように、人も生き残るためにさまざまに試行錯誤してきたのだと、その遠い道のりを思うと感慨深い。

それにしても、地球は人類だけのものではないと、改めて思う。植物が活躍してくれなければ、人間だって生きられない。陸上ばかりか海でも、植物たちは活躍してくれている。海の植物プランクトンや海藻は、地球の2/3の酸素を作り出しているそうだ。こうしてみると、日頃何気なく見ている樹々や花々、鳥たちにも、より一層の愛しさが湧いてくる。

今こそ、自然の働きに思いを馳せ、共生してゆく道を真剣に考える時だと思う。福島第一原発内で増え続ける放射能高濃度汚染水を、地下水で薄めて海に流すなどとんでもないことだ。増え続けるというからには、どれ程長い間流すことになってしまうのか、暗澹とする。影響ある地域の漁協と協議するだけでいいのだろうかと、ニュースを聞きながらかなりの疑問を感じる。海は、日本だけのものではない。

国内外に起こるさまざまな問題に考える事が多すぎて、へっぽこ頭は飽和状態に陥りそうだ。でも考え続けよう。分からないからとぼんやりしていても、その間に起きた事への責任は、結局個々に問われることになる。人間も自然界の一員として生かされていることを念頭に置いて、物事に対処したい。地域は万物のものなのだ。