照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

笑いながらいつしか思考の淵へ

『眼ある花々』は、若い頃その題名に、オヤッと気が惹かれ読んだ紀行文だ。ここには、作家が訪れた国内外の地で、心に残った花々がその時々の思いと共に綴られている。題名からの連想で、ハマナスの花が眼となって、じっとこちらを見つめているイメージが、ずっと私の中に残っていて、もう一度読んでみようとなった。(『眼ある花々/開口一番』(開高健・光文社文庫・2009年)

"・・・ここのホタルは一匹一匹が明滅するのではなく、何万匹もの大軍団がいっせいに輝きはじめ、それがしばらく続いてから、ふと、ある瞬間、いっせいに消えてしまうのである。そしてちょっとはなれたところにある木がふいにぼうッと蒼白く輝きはじめるのである。
・・・・・
眼前の闇が冷たく、蒼白く輝き、それは何万もの大群集の歓声であるはずだが何の物音もしない。光輝がふッと消えると、その穴へ闇がなだれこむ。
それは太古の夜の花である"(P・18)

と、章の終わりを結んでいるのだが、"太古の夜の花"とは、想像しただけで幻想的だ。しかしこれは、ヴェトナム戦争当時、前線で、夜中の爆撃に怯えて小屋から飛び出した時、立ちすくんだ闇の中で見た光景だ。平時よりもずっと神秘的に感じられたのではないか。確か『輝ける闇』にも、この描写はあった。

「ソバの花」では、
"私は大阪生まれの大阪育ちなので、ウドンになじむほどにはソバにはなじんでいないので、力みこんだ批評は東京人にいっさいまかせるとして、ただ純白無垢の"さらしな"と、いっそ徹底的に黒くてゴワゴワモクモクとした"出雲ソバ"なら、二つのうち、二つとも好きだと書いておきたいだけである。"(P・83)

"力みこんだ批評"には、言い得て妙と可笑しくなった。東京は蕎麦の産地でも何でもないのに、蕎麦となったら俺の出番だとばかり張り切る人が多いかもしれない。但し、これが書かれたのは、40年以上も前のことだ。

また、「ああ!・・・・・」というギリシャ編もなかなかだ。"神話のギリシャは百花斉放であった。"というように神話から得た花の知識を頭に詰込み、

"ナルキッソススイセンになり、アフロディテの涙がバラになり、・・・、いいか、そうなんだからな、といい聞かせ、いい聞かせして田舎へでかけていくのだが、街道筋のどこにも花らしい花は一つとして見あたらないのである。"(P・76)

そのうえ、神話時代のギリシャと比べて

"現代ギリシャのあまりに貧寒な光景、そして呆れるほどの醜男醜女しか見られないことにおどろいてしまって、眼が花までとどかないのである。山も、ヒトの容貌も、建築も、ギリシャは過去と現代があまりにもひどく相違しすぎるので、不幸である。古代と変わらないのはおそらく空と海だけである。"(P・76)

とバッサリだ。そして、ようやく目撃した花らしい花が、キョウチクトウには笑ってしまった。しかし、神話の美男美女を期待したにしても、"呆れるほどの・・・"とは手厳しすぎる。でもその正直さ、ガックリ度が伝わってきてなぜか可笑しい。

笑いながらもいつしか、深い思考の淵へ降り立っているという感じだ。ヤッパリイイネ!開高健は。