照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

詩 風 (石川逸子)に思う その1

風      石川逸子

遠くのできごとに
人はやさしい
(おれはそのことを知っている
吹いていった風)

近くのできごとに
人はだまりこむ
(おれはそのことを知っている
吹いていった風)

遠くのできごとに
人はうつくしく怒る
(おれはそのわけを知っている
吹いていった風)

近くのできごとに
人は新聞紙と同じ声をあげる
(おれはそのわけを知っている
吹いていった風)

・・・省略

遠くのできごとに
立ち向かうのは遠くの人で
近くのできごとに
立ち向かうのは近くの私たち

・・・省略

『詩のこころを読む』茨木のり子・岩波ジュニア新書・P・135~138より

私はこの詩を知らなかったが、”遠くのできごとに  人はうつくしく怒る”という表現に、遠くで見ている自分たちの無責任さを、言い得て妙と感心する。それにしても、いつの時代も人は、同じことを繰り返してきたのだと強く感じる。現在も状況は全く変らない。但し、”近くのできごとに人は新聞紙と同じ声をあげる”が、新聞からテレビやSNSと広がった。その分、さまざまな意見が入り乱れてごちゃごちゃだ。

耳障りの良いもっともらしい意見や、主張の強い大きな声になびきがちだが、そのような時こそ、その裏にある自分の思いを見つめ直したい。これは、「寂しさの釣りだし」にあっているのかもしれないと。そして、いつでも人の背について歩くのではなく、近くのできごとには自分の意思で立ち向かいたい。

最近の大きな出来事にもずっと思っていたことがあるが、なかなかまとめきれないでいた。自分の得る情報量が少ないにもかかわらず、どうして自分はゆらゆらしてしまうのだろうと考えていた。そして、自己責任の扱われ方に、ずっと違和感を覚えていたからと気づいた。

私はいつも、自分の行動には自分で責任を持つを指針としている。だが、自己責任という言葉を使いずらい雰囲気があって表現できないでいた。それはなぜかと云えば、自己責任だから放って置けという強い論調には、どうしてもなじめなかったからだ。

自己責任は、今回のような他国での行動ばかりではなく、身の回りの事全てにあてはまると思う。分かり易く極端な例をあげれば、生活習慣病のような自己管理に関わる病気もその範疇に入るだろう。その時に、自己責任だから、支払いに困る人は診てあげられないと言われたらどうするだろうか。私が疑問に思ったのはこの点だ。今回の場合と比較するには、状況が違い過ぎると思われるかもしれないが、基本的には同じだ。金額の多寡や事の大小で、判断すべきではないと思う。

この例でいえば、暴飲暴食で不摂生をした挙句に重い病に倒れ、苦しんでいる人を放っておけとはならないだろう。この場合、本人が自覚するかどうかはともかく、自己責任による行動の結果は充分に受けているはずだ。そこへ、礫を投げられる人はいるだろうか。
その2へ続く