照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

グルメインコによる「桜の蜜ランキング」なんてあったら愉快だな

もう桜の話題はいいかなと思っていたら、何と桜の枝にインコを見つけた。地面に、次々と桜の花が丸ごと落ちてくるので何だろうと見上げれば、インコが萼(がく)の辺りから花を千切っている。

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私と一緒に見ていた方が、「向こうの桜の木の下にも花がたくさん落ちていたんですけど、インコがやっていたんですね」と仰る。

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そういえば少し前、豪徳寺周辺を散歩している時、5、6羽のインコが、敷地内の大きな木から木へ飛び移ったり、辺りを旋回していたことを思い出した。私が見上げている門前の桜の木には一羽だけだが、この日は別行動なのかもしれない。

ところで、忙しなく嘴を動かすインコだが、蜜を吸っているようにも見えない。ただ遊んでいるにしては、ずいぶん熱心だ。だいたいが、野生化しているインコが、〈花を散らすのが面白くて〉などと、無用な事をするのだろうか。

しばらく眺めていたが、見物人などに構っていられないとばかりに、嘴を休めることもなくひたすら花をポキポキやっている。あたかも、収穫期の刈り取り、もしくは摘み取りを思わせる仕事ぶりだ。

次に、豪徳寺境内の桜へと目をやると、そこでは数羽のヒヨドリが盛んに蜜を吸っている。花を落とすことなく、順番に隣の花へと嘴を入れてゆく。インコのやり方とはだいぶ違う。やはり遊んでいるのだろうかと、また門前まで戻ってみると、先ほどのインコはまだ同じ枝にいた。

改めてじっくり観察していると、ポキッと萼を折ってから、花を落とすまで僅かに間がある。花は丸ごと落ちているので、花びらを食べているわけではない。となると、素早すぎて私にはよく見えないが、蜜を吸っているのかなと思えてくる。

ヒヨドリだって、ある程度蜜を吸ったら枝に止まって一休みするのに、インコは5分どころか10分近くも同じ枝にいる。それを飽きずに眺めている私も、相当暇人だ。そろそろ行くかと思った矢先、インコが枝を離れて飛んで行ってしまった。

私も歩きだす。と、少し離れた所に同じように萼ごと落ちている桜の花があって、これもインコの仕業かなと思う。だが、どうして寺境内にある大きな桜の木ではなく、それに比べればだいぶささやかに思える木ばかりなのだろうと、新たな疑問が湧いてくる。

単に、縄張りの関係なのかな。それとも、桜の木の場所によって、蜜の味が変わるなんてこともあるのだろうか。もしかして、蜜はデザートに分類されるのかもしれない。美食家のインコが、「インコの桜の蜜ランキング」なんて出して、この時期ベストセラーになっているかも、なあ〜んてね。お終い。

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豪徳寺 山門付近の桜

 

 

文字通りに百花繚乱ー眺めているだけで気持ちも華やぐ

昨日、一昨日と、ここ2日ばかり気温が高かったので、足踏みしていた桜もようやく咲きそろった感がある。私も、用事ついでに目黒川の桜並木を眺めてきた。

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目黒川の桜並木 (池尻大橋より)

平日ながら、陽気に誘われて人出も多い。仕事途中に折良く通りかかったスーツ姿の男性たちも、満開の桜をスマホに収めている。

今年の桜は、何だかくすんだ印象があったが、これだけ揃うとさすがに艶やかだ。あたかも、〈私たちの底力ご覧なさい〉と目で物言う大女優の如しだ。私は、恐れ入りながら桜から離れる。

再び幹線道路に戻る。するとこちらでも、イチョウやトウカエデといった街路樹の間に、交互に植えられているライラックとカイドウ(海棠)が、競うように咲いている。どちらも好きな花なので、嬉しい。

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ライラック 街路樹

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ライラック 街路樹

ライラックの小花に鼻を近づけると、とってもいい香りがする。高校生の頃、紫丁香花(ムラサキハシドイ)という和名に惹かれて、この花の苗木を買ったことがある。でも、後になって花がさくと白かった。これは、(多分だが)日本原産のハシドイで、かなりがっかりしたのを覚えている。

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海棠(カイドウ) 街路樹

ところで、鎌倉の光則寺にはとても見事な海棠がある。街路樹の海棠が、大きな木に育つまでにはどれくらいかかるのだろうか。それとも、根を伸ばす余地がなくて、ずっと細い木のままなのかな。実際、既に10年以上見ていると思うが、木の大きさはちっとも変わっていない気がする。

それはさておき、他にも、道沿いで繰り広げられる花々の競演に、これはまさしく百花繚乱だなと、ただ眺めるだけの私まで、気持ちが華やいでくる。

 

Good Luck! アオサギ君orアオサギ嬢ー水辺のない住宅地でアオサギに遭遇

昨日は、朝から穏やかな日であった。散歩日和と歩き始めるとすぐに、近所のお宅の屋根の上に止まっている大きな鳥に気づいた。アオサギだ。こんな住宅地に珍しいと、慌ててスマホを取り出すと、スイッと飛び立ってしまった。でも、一段高いお隣の屋根に移っただけであった。

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桃の枝先辺りに見えるのがアオサギ

少し遠いけどまあ良いかとシャッターを押していると、後ろから、「撮れましたか」と声がかかる。振り返ると、犬を連れたおじいさんと若い男性が立っていた。私が、ずっと屋根の方を見上げて写真を撮っていたので、アオサギに気づいたようだ。横の若人は、多分通りがかりの方で、おじいさんに鳥の存在を教えられ一緒に見ていた模様だ。

「ちょっと遠いですね。上手く写るかどうか」と答えるとおじいさんは、「きっと写真撮ってもらいたいと思っているんですよ」と仰る。そう言われれば確かに、身動きもせずにじっとこちらの方を見ている。

続けて私が、「こんなところにアオサギは珍しいですね」と付け加えるとおじいさんは、「迷い込んでしまったのかな」と。更に道行く人が二人ほど加わって、皆でアオサギを見上げていた。が、再び羽ばたいたかと思うと、最初にいた屋根の方へ移ってきた。まるで、写真が撮りやすいように近くへ来てくれたみたいだ。

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右側 羽ばたいているアオサギ

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屋根の上のアオサギ

やがて、私ともう一人の通行人が写真を撮り終えるのを見計らったかのように、大きく羽ばたいて去っていった。

今年はアオサギに縁があるのかなと、先月、奈良・桜井の聖林寺を訪ねた帰りにも、バス停の側の小川でこの鳥に出合ったことを思い出した。あの時も、私の頭上を大きく一回りすると飛んでいってしまった。

私が住む辺りには結構敷地の広いお宅もあったのだが、この15年程でほとんどが細分化されて、池どころか庭のあるお宅も珍しくなった。川も暗渠になって、上は緑道として整備されている。

アオサギがエサを探すには、神社の池か、特別保護区として残されたかつてのお屋敷跡にある池、もしくは、少し離れた砧公園まで行かないと無理だろう。もうひと頑張りすれば、確か調布・深大寺近辺には田圃もあったはず。

もしくは緑道でも、再処理した水を利用してせせらぎにしている箇所もあって、以前、シラサギが小魚を取っているのを見たこともある。緑道の終点から目黒川へ流れ込んでいる辺りでも、シラサギがエサを探しているのを遠目に眺めたことがある。

というように、アオサギが飛んでいってから、いろいろエサ場となりそうな所を思いついたが、時すでに遅し。もっとも、アオサギが側にいたところで、私がそのことを伝える方法もないのだ。まあ、私などが心配せずとも、飛びながら上から探しているだろう。

 Good Luck! アオサギ君orアオサギ嬢 

 

 

 

 

大地から溢れ出る喜びー小花たちの合唱しているような姿に健気さを感じる

ようやく春爛漫という感じになった。1ヶ月ほど前は、冷たい空気の中に春の兆しを見つけては喜んでいたが、今や探さずとも、紫や黄や白の一群があちこちから目に飛び込んでくる。

靖国神社にあるソメイヨシノの標準木は、既に満開宣言が出たというが、私の散歩コースの桜はどれもまだまだといったところだ。

でも、根本の辺りのさまざまな小花たちは、合唱しているかのような楽しげな雰囲気を醸しだしている。それはあたかも、まだ蕾が多い桜の寂しさを、自分たちで精一杯補おうとしているようにも見えて、健気ささえ感じられる。

桜ばかりがクローズアップされるけど、注意深く窺っていると、どの花からも春を寿ぐ声が聞こえてくる。大地から溢れ出る喜びが伝わってきて、春だなぁ〜と思う。

 

 

"家庭料理はごちそうでなくていい"に共感する


"家庭料理はごちそうでなくていい。ご飯とみそ汁で十分。"(The Huffington Post・3/26付)という見出しに目を引かれた。http://m.huffpost.com/jp/entry/15561352

提唱されているのは、料理研究家の土井善晴さんだ。

"献立の基本は一汁三菜。
私たちはあまりにも長いあいだ、この思い込みにとらわれてきたのではないだろうか?"

確かに、自分がかつて作っていた食事は、自分が子どもの頃の食卓と比べれば、日々がハレの日のようであった。

極端に偏食だった私は、料理にはさほど関心がなかった。でも、それを直したいという思いもあって、一人暮らしするようになってからは料理に取り組んだ。手本としたのはもっぱら本であった。

そこには一汁一菜という考えはなく、献立の例には、主菜の他に、副菜が数種類あったと記憶している。そのため、いつしかそれを基本あるいは普通と思い込んでしまったのかもしれない。おまけに、比較的簡単な野菜類のおかず(例えば野菜の炊き合わせとか、キンピラゴボウ等)は、主菜の座には物足りないように思われた。

だが、"家庭料理はごちそうでなくていい"に、今となってはまったく手遅れながら、本当にそうだなと共感する。肉も魚も、メインに野菜を使ったとしても手の込んだおかずは、やはりハレの日のごちそうに相応しい。ケ(日常)の日の食卓は、もっとアッサリで良かったのに、どうしてあれほど張り切ってしまったのかとさえ思う。

(今日のごはんなあ〜に?)と、楽しみに待っている家族の顏を浮かべると、ついつい喜ばせたい意識が働いてしまったのだろう。でも、もっとハレとケの区別をつけてもよかったのだ。

安易に、手間もかかる見栄えの良いごちそうに頼らず、知恵を絞った食卓にすれば、食事の支度という家事の大きな部分を省略できて、疲れ切ることもなかったのではないか。でもそれ以前に、いろいろな面で、家族の意識改革が必要だなとも思う。私の場合過去に、粟や稗入りご飯に野菜中心のおかずは、家族の不平を招いて、結局は止めてしまったという苦い思い出もある。

現在の私の食事は、簡単に準備できて、自分が美味しいと思えるが基本だ。ちなみに私の朝食はスープご飯だが、毎日同じ形態でも、使用する野菜でアクセントがつくので、全然気にならない。実際、誇張ではなく、食べるたびああ美味しいと思う。

毎日、今晩のおかず何にしようとお悩みの方は、この際、家族を巻き込んで、これまでのおかずへの意識を変えてしまってはどうだろうか。きっと、暮らし方すべてへの見直しにもつながるに違いない。食事に手間をかけるばかりが、家族への愛情ではない。

"これは貴人の行楽の図である"ー高松塚壁画の松本清張氏考察になるほどと思う

『遊古疑考』(松本清張河出文庫・2007年)は、(新潮社・73・9を底本とする)とあるように、書かれたのは40年以上前だが、内容が非常に興味深い。

考古学及び古代史におけるさまざまな研究論文を丁寧に読み込み、場合によっては研究者に直接尋ねたりしたうえで推測をなさっているのだが、さもありなんと読みながらグイグイ引き込まれる。

殊に、高松塚壁画に関しては、多分その見方が妥当だろうなと思わせられる。

"檜前(檜隈)の地の特殊性"(P・368)から、
"高松塚の被葬者が誰かという比定は興味の深いことだが、よほどの確証がない限り、これはつつしまなければならない。・・・
軽率には確言できないが、わたしはこの高松塚は檜前に住むいわゆる帰化人集団によって築造され、被葬者もその系統の族長であろうと推定している。"(P・370)

とあって、それに対していろいろな角度からの、自分が根拠とした説などをあげておられる。

"高松塚壁画は、西壁と東壁とに男子群像と女子群像とが棺を置いた床を隔てて相対して描かれている。それが四角ばったお供の図ではなく、きわめて楽しい雰囲気の姿態である。文武朝の儀仗にふれた岸敏男もこれに葬儀規定にない持物があるのでさすがに「葬祭と結びつけるにはなお検討を要するので、ここはともかく威儀を示すという理解にとどめておこう」(前掲「壁画古墳高松塚」)と書かざるを得ない。当然で、これは貴人の行楽図である。"(P・374〜5)

続けて、
"墳墓の壁画といえば何でも葬祭儀礼や黄泉の世界や呪術性に解さなければ承知できない一部学者のかたくな理解は困ったものである。そんな暗さは壁画のどこにもない。"(P・375)
と、苦言を呈しておられる。

先入観に基づく見方を戒める言葉は他にも出てくるが、まったくその通りだと思う。素人からすれば、どこをどうやったらそんな結びつきが考えられるのかとびっくりする例もある。でも、"かたくな"に思い込んでしまったら、それに添うような解釈に突き進んでしまうのだろうなと思う。

そして、古代史や考古学の学問的知識のない私からすれば、もっと単純に考えた方が、解決への糸口が見つかりそうなものなのにとも思う。それほど容易いことではないんだよと一喝されるかな。せめて、もう少し知識もつけて、古代の世界を垣間見たいものと思う。

遠い時代の事は、解明されていないことが多い分、あれこれ想像を働かせる余地があるので楽しい。本を読んでいると、謎解きをしているような面白さがあって、自分もその一員に加わっている気にさせられる。

 

 

物の置き場所を極端に減らしてみたら本当に必要な物だけが残った

昨日は、朝から、クローゼットに押し込んでいた荷物を、さあ~やるかと、勢い込んで所定の位置に戻す作業に取り掛かった。アララ?、意気込みの割には何ということもなく、アッサリ終わってしまった。

元に戻すといったところで、以前は4個のカラーボックスが1個になったのだからすぐに片付く。そこには日常的に使用頻度の高い物だけを置き、それ以外の物は、中身を処分して空になったプラスチックケースに「とりあえず」入れて、またクローゼットに逆戻りだ。

但し、「とりあえず」が曲者なので、もちろん明日から数日かけて吟味し、そのうえで処分するかどうか改めて決める予定だ。つまり、「とりあえず」にいつまでと終了日を設定する。

今手元にある物は全て、厳選して残したつもりであったが、本当に必要かどうかぐらついてきている。それは、今回、収納場所をあえて少なくしたことで、自分の中でようやく踏ん切りがついた表れだと思う。

結局、置き場所があればあるほど物は増えて、処分するという決断が先延ばしされるのだろうなと思う。そして、「とりあえず取っておこう」、「とりあえずこのままにしておこう」、と、「とりあえず」という猶予期間をなし崩しにして、気づいたら手がつけられない状態になっているのだ。

自分がいなくなった後、誰が始末するの?と考えれば、当然、さっさと処分した方がいいに決まっている。だいたいが、日々の暮らしに必要な物ってそれほど多くはない。大半を処分してみると、それがよく分かる。

また私の場合、物は大事に使うが、愛着があるかといえばそうでもない。気に入った物はアクセサリーにしろ服にしろ、日常的に使用しているので、年ごとに劣化してゆくからいつか寿命がくる。愛着云々よりも、使用に耐えなくなったらそれまでだ。

それに、人生の持ち時間を考えると、身の回りはいつでもきちんとしておきたいという思いが先に立つ。

ともあれ、物が少なく、かつ整理整頓がしてあれば、探し物に煩わされることもなく、掃除だって楽だ。ついでに、毎日のチョコチョコ掃除を習慣づければ、季節毎の中掃除はおろか、年末の大掃除だって不要だ。

ただ、ダイエットと同じで、この状態を維持できるかどうかが鍵だ。斯くいう私だって、ここに越してきてちょうど15年、増え続けた物を整理して、再び出発点に立ち戻ったというところで、偉そうなことは言えない。

そして付け加えるなら、このように極端に物のない暮らし方、私には合っているけれど、もちろん良し悪しではなく、単に好みの問題だ。シンプルが好みの方には向いている。