照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

クスリと笑って頂ければと、「あらら商事は本日も晴天なり」を本日よりご紹介

昨年まで勤務していた会社で、私が実際に経験した面白話を、「照る葉の森から」とは別仕立で、「あらら商事は本日も晴天なり」というタイトルで、実話をデフォルメ無しにごく短い記事にしたものがある。

自分の周りだけの狭い範囲なので、そうそう毎日面白いことばかりが起きるわけでもない。結局ネタが尽きて、そちらは既にやめて久しい。やめた直後、(やっぱりこれは)と、少しでも差し障りがありそうと判断した記事は削除しておいた。

今思えば、まったくどうってこともないのだが、書いた直後は、モデルとした当人を日々目の前にしていたので、面白がりすぎてちょっと悪いかなとの思いもあった。だから、残っているのは、誰にも当たり障りのないものばかりになってしまった。

もうほとんど誰の目にも触れないこれらの記事を整理しようと思い立ち、その前に、「照る葉の森から」で、毎日2記事づつ紹介してから削除することにした。既にこちらの記事をご存知の方も、もう一度クスリと笑って頂ければ。

但し、面白くも何ともないじゃないかとお怒りになられても、当方で責任は負いかねますので、お読みになるのはどうか自己責任で!ではどうぞ。

ある晴れた朝に

 http://awawasyoji.hatenadiary.jp/entry/2014/10/11/043238

のどかな昼下がり

http://awawasyoji.hatenadiary.jp/entry/2014/10/12/044344

 

一人の時間を豊かに生きるには〜歳を重ねるほどに精神の自立が大事

仕事を離れて1年。辞めた後、時間をもてあますのではないかと危惧していたのだが、それはなかった。老後は、幾つか趣味を持って、人との繋がりも増やしましょう的なアドバイスが載った本を見かけるたび、自分の考えとはちょっと違うなと感じていた。

私はむしろ、人との関係を見直したいと思っていた。そして、どんどん自分を狭めていると感じるほどに、あえて人との距離を取るようにしてきた。といっても、元々が友人・知人が少ないので、改めて宣言するほどのことでもないが。

止めようかどうか迷いながら続けていた年賀状も、来年からはきっぱり止める決心がついた。今年は、昨年父が亡くなったので年賀欠礼の挨拶状を出したため、連絡しなかった方から数枚頂いただけであった。

だが、年賀状がなくても別にどうってこともないなと感じた。どのみち、昨年までの数年、正月は日本に居なかった。もし、正月に自宅で過ごしていたら、やはり年賀状が来ないのは寂しいのかなと思って止める踏ん切りがつかなかったのだが、これでようやく決まった。

人は、一人では生きられないとはよく言われる。殊に、大災害が起こるたび、隣近所をはじめ、日頃さほど付き合いのなかった人の親切が身にしみたというような報道はよくなされた。実際、その通りだと思う。そして、そのたびに絆という言葉がクローズアップされる。でも、しばしば繰り返されるその言葉が、どうにもしっくりこないでいた。

「絆」とことさら声を高くしなくても、いつでも、誰に対しても、自分ができる範囲での手助けは惜しまずにしたいと思っている。自分がしたい親切ではなく、相手が本当に必要としていることを見極め、手を差し伸べる。その手が不要になったら、そっと離れるだけ。もし自分が逆の立場になったら、必要な分だけ、有り難くその手を受ける。

私には、できることならそのように困った時だけ手を差し伸べ合う関係が理想で、普段は極々あっさりがいい。絆となると重すぎて、適度な距離間が保てなくなる気がしてしまう。心理的距離が近すぎると、自分目線だけからの愚痴や僻みが溢れ出しかねない。そんな甘えを、自分に許したくはない。甘えたくなったら、自分で自分を甘やかしてやればいい。

だから私は、人との関係に距離を置きたい。歳を重ねれば重ねるほど、精神の自立を大切にしたい。趣味や友人を増やしましょうというのは、暇つぶしの時間や相手を見つけましょうに他ならない。だから、それら推奨の逆をいくように、豊かにある時間を使って、自分一人で自分の世界を広げたい。

おかげで今、私は自由に心楽しく生きている。多分これから先も、ただ時間を埋める人生とは無縁でいられると思う。そして、精神の自立のためには身体の健康が大事と、日々せっせと歩いている。

能天気の素を探しにー殺伐としたニュースばかりでは気が重くなる

りんごの木のあるお宅の側を通りかかると、先週芽吹いたばかりなのに、もう花をつけていた。このところ続いた初夏のような陽気が、後押ししたのかもしれない。それにしても、植物の成長は早いと感心するばかり。

f:id:teruhanomori:20170418013140j:image

りんごの蕾

f:id:teruhanomori:20170418013151j:image

中央下あたりに咲き始めの花あり

そこから角を曲がったちょっと先には 、ピーターラビットでもひょっこり顔を出すのではないかと錯覚しそうな一画がある。かなり広いけれど公園ではなく、マンションの敷地内だ。環七のすぐ側とは思えない光景に、〈無断立ち入り禁止〉の立札の横で、金網越しに一枚撮らせてもらう。タンポポカラスノエンドウハナニラと彩りも良い。

f:id:teruhanomori:20170418013213j:image

ピーターラビットがひょっこり現れそう

f:id:teruhanomori:20170418013222j:image

赤紫色がカラスノエンドウ 左上の白色はハナニラ

もう一棟建てられそうなほど広々としていて、少し前には桜がきれいであった。日々このような景色を眺められるなんて、住んでいる人からすればラッキーという感じかな。それとも、見慣れちゃったらなんていうこともないよかな。

ところで、自然界は春の喜びで弾けそうなのに、翻って人間界は、毎日嫌なニュースばかりでまったく殺伐としている。そんな中私は、能天気の素を探して街歩きに精を出す。

 

"読まない字は書かないようにフランス国へ申し込んだらどうだろうか"という発想にびっくり

『旅行記でめぐる世界』(前川健一・文春新書・H・15)というタイトルに、どんな旅行記を取り上げているのかなと目次を見たら、安岡章太郎の『アメリカ感情旅行』があった。(オッ、これは)と読み始めたら、期待以上の優れものであった。

海外旅行自由化以前からごく最近までの、著者いわく"「私好み」"の旅行記を選び、それぞれの時代の旅行事情及び状況から、個人や社会を考察しているのだが、エピソードの切り取り方にセンスが光る。

第1章(2)有名人の旅に出てくる画家中川一政の『モンマルトルの月』には、とりわけびっくりした。横に"旅する年齢"とあって、別にユニーク話の披露を意図しているわけではないのだが、私の眼前には、画家の個性が強烈にクローズアップしてきた。

ブラジルからフランスに渡る船の中で、妻にメニューを読んでもらいながら、

"「驚くべし。・・・何故フランス語はこんなに読まない字を沢山つけているのだろうか。私ごときは正直だからみな読んでしまう。日本語では読まない字などついていない。
正直な者を誤らせないために読まない字は書かないようにフランス国へ申し込んだらどうだろうか。どうもフガフガで気にくわない。

ところが、中川がフランスに着いて、フランス語を耳にすると、その優雅さに魅了される。その「優雅さ」は、「読まぬ文字から発せられるのではないかと思う」ようになり、「それゆえ、フランス国へ忠告を暫く見合すことにした」のである。"(P・23〜4)

"読まない字は書かないようにフランス国へ申し込んだらどうだろうか。"って、こんなこと考える人がいるんだと、その発想に心底驚いた。"正直な者を誤らせないために"って言うが、"私ごときは正直だからみな読んでしまう。"というように、だいたいが自分が間違えてしまうからに過ぎない。

こんなユニークな人の書く絵はどんなだろうと、早速画像検索してみると、さまざまな絵の中に、赤と黒の出目金の銅版画があった。飛び出た目に好奇心がいっぱいの金魚は、この文章にはぴったりだ。

と、私の頭はちょっと本から離れてしまったが、ともかくこのように、旅行記の中のほんの僅かな部分にスポットを当て、その人物像をくっきり浮かび上がらせる。その光の当て方がこちらのツボに合致するものだから、どんどんのめり込んでしまう。ちなみに、この著者自身の旅行記も、ぜひ読んでみたくなった。

ところで、倉沢愛子著『二十年目のインドネシア』は、かつて貧乏留学生として滞在した国に、その二十年後、日本大使館の職員として赴任したところ、見えてくる光景がガラリと変わってしまった例として、とても興味深い。

他にも幾つか気になる本があって、まさに、旅行記で世界を巡っているような気になる。

旅に出て、何をどう感じるかー自分なりの視点を持たなければ風景は違ってくる

『インパラの朝 ユーラシア・アフリカ大陸684日』(中村安希集英社文庫・2013年)は、解説文(P・285)によると、"青少年読書感想文コンクール高等学校の部の課題図書となったせいもあり、本書は、若い世代にも多く読まれているが、・・・この本について語るとき、学生の顔から透明の笑みがこぼれ、未来そのもののようにぱっと輝いた。"とある。

そうだろうなと思う。でも正直言うと、読み始めてしばらくは、読むのやめちゃおうかなと思っていたくらいだ。だが、「第6章 鼓動 東アフリカ」に入ってからが、俄然面白くなる。

そして、「第8章 血のぬくもり 西アフリカ」のニジェール[善意とプライド]では、途上国への支援ということについて、本当に深く考えさせられる。

"アフリカを歩けば歩くほど、論理と現実の乖離に気づき、違和感ばかりが強まっていた"(P・236)著者は、ニジェールで支援に関わっている人々と出会い、意見を交わすうちにいろいろなことが見えてくる。そのうちの一人、任期終了を間近に控えた青年海外協力隊員の女性が語る支援の形には、とりわけ共感を覚える。

著者自身、"「アフリカの貧困撲滅を! アフリカに支援と開発を!"というスローガンには、いかにそこに暮らす人々への視点が欠けているかを、実感していたからだ。

"貧困? それはまさに私自身が一番言おうとしていたことだ。・・・アフリカへ行って貧困と向き合い、現地の惨状を確認し、世界に現状を知らしめて共感を得ようと計画していた。・・・あてがはずれてしまった。なぜなら、予想していた貧困が思うように見つからなかったからだ。想像していたほど人々は不幸な顔をしていなかった。(P・246〜7)

それどころか、

"アフリカは教える場所ではなくて、教えてくれる場所だった。助けてあげる対象ではなく、助けてくれる人々だった。・・・・・
アフリカは私を小さな声で、小さなその手で助けてくれた。"(P・247〜8)と、多くの温かい手を差し伸べられて、助け合うということの根本的な意味に気づく。

そして、
"ODAとは関係がなく、NGOの登録すらもしていないような施設"であるウガンダの小さな孤児院兼学校の"小さく地味な活動"(P・247〜8)に、支援の本来あるべき姿を思う。それは、親しく話すようになった海外協力隊員の女性の意見とも重なる。

「第7章 内なる敵 南アフリカ」のマラウイ[隔たり]は、グサリと心をえぐられるような話だ。

新たに、相部屋に入室してきた若い欧米人女性の"「どうなっているの?」"に答え、部屋の説明をする。が、彼女は完全に著者を無視して、再度同じ問いを発する。すると、もう一人の欧米人同室者が同じ説明をし、やがて二人は楽しげに話し始める。
"私の声や存在は、彼女が見渡す世界の中に含まれていないらしかった。"(P・182)

旅に出て、何をどう感じるか。そこに、自分なりの視点を持たなければ風景は違ってくる。目の前の現実を、自分ならどのように受け止めるか。著者の旅に沿って、いろいろと問題の本質について考えさせられた。ハートフルな部分と裏表に重たい部分もあって、読む方もまた、素通りせずに向き合うタフさがあるかいと問われている気さえした。

"親しくもない同僚の一言で"インドを旅しようと思うなんて愉快だ

"「インドにでも行ってみたら」。親しくもない同僚の一言で、僕はインドへと旅立った。」"(『あの日、僕は旅に出た』(蔵前仁一幻冬舎文庫・H・28年・裏表紙より)

"親しくもない同僚の一言"で旅に出ようと思ったのかと、まず、裏表紙の内容紹介に、面白そうだなと思った。

"不潔で、物乞いがいっぱいいて、猛烈に暑い。それだけで普通は目的地から落選する。まるでインドのイメージとはかけ離れた無口なカトウくんが「でも、おもしろいんだよ」という。実に不思議だった。いったいなにがおもしろいのだろう。
そのとき、僕は初めてインドに興味を抱いた。(P・21)"

読み始めたら、"僕"の興味に、こちら側もますます引き込まれていく。カトウくんのキャラクターまで、想像してしまう。

裏表紙には続いて、

"・・・だが、この最低最悪の経験こそが、30年に及ぶ旅の始まりだった・・・。いい加減な決断で、世界中を放浪し、旅の出版社まで立ち上げた著者の怒濤の人生"

とあるように、その"怒濤の人生"がユーモラスに綴られているものだから、怒濤というよりは面白渦(こんな言葉は多分ないが)に、自ら巻き込まれていっているような感じさえする。

ミニコミ紙発行時代、人に頼む費用がない間は、奥様と二人、何でも自分たちの労働でこなしている辺りもほのぼのとしてくる。かなり価値観が合ったパートナーじゃないと、こうはいかないだろう。

小難しいことや偉そうなことなど何一つ言ってないのだが、読み終えると、この方の人生哲学がじんわりと伝わってくる。いい本だなと思う。

時にはメルヘンチックに

まさに春!という感じの昨日の朝。人々の装いも、前日の肌寒い雨の日とはガラリと変わって、その明るい色合いはまるで花のようで、(アッ、ここにも春が)という感じであった。

道行く人の誰もから、春が揺らめいていた。内実は、心に不安や困りごとを抱えているのかもしれないが、とりあえずそれは横へ置いておこうよとばかりに、太陽は、植物へも人へも建物へも、地上の全てに等しく日差しを降り注ぐ。光の煌めきが、いっとき暗い気分をも覆ってしまうから、皆んな輝いて見える。

この光を邪険にし出すのも、きっともうすぐだ。だから、この陽の輝きを喜びに感じられる今、全身で謳歌したい。歩いたり、バスに揺られたりして、街や人を眺めながら、そんなことを思っていた。春は、人をメルヘンチックにさせるようだ。