照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

噂に惑わされず、さらに惑わす側にならないためにはどうすべきか

寺田寅彦が、関東大震災が起きた翌年の1923年9月に、流言蜚語の伝播を燃焼の伝播になぞらえ、それらが広まることへの責任は市民自身にあると書いていたと知り、早速その文を読んでみた。

 

ちなみに、寺田寅彦って誰?と思われるかもしれないが、正直私も、詳しくは知らない。明治生まれの物理学者で随筆家、夏目漱石の門下生であったことから、『吾輩は猫である』の水島寒月及び『三四郎』の野々宮宗八のモデルと言われている。それに加え、作家安岡章太郎の親戚ということで、父章を題材にした随筆にその名が出てくるのを覚えているくらいだ。

 

つまり、著書の一冊も読んだことがなく、自分の好きな作家の文章を通してその人物を知った気になっているだけだが、それでも、寺田寅彦と聞くとなぜか親しみを感じる。と、何の足しにもならない話はさておき、"伝播"について引用させて頂く。

 

" 最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ「伝播」は起らない。従っていわゆる流言が流言として成立し得ないで、その場限りに立ち消えになってしまう事も明白である。


それで、もし、ある機会に、東京市中に、ある流言蜚語の現象が行われたとすれば、その責任の少なくも半分は市民自身が負わなければならない。事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。(寺田寅彦『流言蜚語』青空文庫より)

 

ごく普通の、多分善良なる人々は、背後に隠された意図など疑おうともせず、ただ流れてきた言葉を鵜呑みにして、まして自分が、"次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質"となっていることなどまるで意識することなく、伝播する一人になってゆくのだなと改めて考えさせられる。

 

だから遥か二千年前から、"いつでもどこでも有効であった作戦"と『ローマ人の物語』の著者いうところの、噂を広めて政敵、あるいは邪魔者の失脚を計るということが繰り返し行われてきたのだろう。そして、その"有効性"に頼ろうと試みる状況が今なお変わらないのは、ここ数ヶ月の国内での報道を振り返れば明らかだ。

 

ちなみに、紀元前のローマでの一例をあげると、市民目線に立ち、農地改革に取り組んだガイウス兄弟の場合も、兄ティベリウス、後に弟ガイウスが、元老院の噂作戦にやられている。本音は、自分たちの利益に反する改革など以ての外とスクラムを組んだ元老院だが、そんなことはおくびにも出さず、市民が反感を覚えるような噂を巧妙に流したそうだ。

 

"護民官ガイウスの政策は、票集め、人気取り政策、権力の集中、権力の私物化であるという声を広めた。現代イギリスの研究者の一人は、次のように書いている。「無知な大衆とは、政治上の目的でなされることでも、私利私欲に駆られてのことであると思いこむのが好きな人種である」

好きなのは無知な大衆にかぎらないと、私ならば思う。これより七十年後の話になるが、ローマ史上最高の知識人であり、私の考えでは最高のジャーナリストでもあったキケロでさえ、この種のことが「好きな人種」の一人であったのだ。要は、教養の有無でも時代のちがいでも文化のちがいでもない。目的と手段の分岐点が明確でなくなり、手段の目的化を起こしてしまう人が存在するかぎり、この作戦の有効性は失われないのである。"(『ローマ人の物語勝者の混迷 [上]6』塩野七生新潮文庫・P・90~91)
とおっしゃる。

 

ちょっと解り難いが、"この種のことが「好きな人種」"は、"教養の有無でも時代のちがいでも文化のちがいでもない"となると、"媒質"になるのを避けるためには、結局、何事も自分で考え、確かめるのを習慣づけるしかないなと思う。

 

しかし厄介なのは、噂は大なり小なり、なぜかこちらが乗りやすいタイミングで耳に入ってくるということだ。まったく関心のかけらもなければ、たとえ巧妙であったにしろ、聞いてもただのフ~ンで終わってしまう。

 

だが、多少なりとも心に引っかかる時は、自分はなぜそう感じるのか、まず自分の精神状態をじっくり観察する必要がある。と同時に、相手(個人でももっと大きな規模でも)は、何のためにそのようなことを言うのだろうと考えてみることも大事だ。

 

知らずに流言飛語の"伝播"を担うのは嫌だが、かといって、話の真偽をいちいち深掘りするのも面倒となれば、信長の時代、日本にやってきた巡察師ヴァリニャーノ言うところの、"日本人は天候とかその他のことを語り"(若桑みどり著『クアトロ・ラガッツィ 』上巻より)を、そのまま受け継ぐよりないかな。

 

でも、それではあまりにつまらなさ過ぎる。まして同じような気候が続いたら、すぐにネタ切れとなる。それに、誰かと言葉を交わすことがなくても、ニュースの類は始終目に触れる。おまけに、ネット上や紙媒体の書籍はもちろん様々なメディアには、正反対の意見が溢れていて何が何やらという感じで、参考にしていいものやら余計に悩む結果となる。

 

それでも、

"科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う"(流言蜚語より)

 

と、寺田寅彦も言うように、たとえ手間でも、"科学的常識"なども駆使しつつ、精一杯頭を働かせ、あるいは、自分が納得いくよう、根拠となる元まで遡って調べたり、考えたりするしかないだろう。

 

噂に惑わされず、また惑わさずを実行するのは、流れの早い小川に、ゆらゆらしつつもしっかり立っているイメージだ。小川だからといって油断していると、足をすくわれかねない。踏ん張っているのも大変だが、流されないためにはそうするしかない。