照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

『ハイドリヒを撃て』という映画の紹介に、アラララ??となってしまった件

『ローマ亡き後の地中海世界 海賊、そして海軍』全4巻(塩野七生著・新潮文庫)を読み、ローマ帝国が消滅した後、(国として海賊対策をしていたヴェネツィアは別として)地中海沿岸に住む人々が約千年という永きに渡って海賊に悩まされ続けたということを知るにつけ、最初にローマ帝国の構想を描いたユリウス・カエサルって、やはり凄いなと改めて考えていた。

 

そんな折、ラジオから流れてきたある映画評論家の方の言葉に、エッとなった。『ハイドリヒを撃て』という映画の紹介であったのだが、これは、第二次世界大戦中に、実際にチェコで起きたナチスドイツのナンバースリー暗殺を題材にしているという。

 

要人を暗殺されたナチスドイツは怒り狂って、報復として相当数のチェコ市民を無差別に殺害したそうだ。結局それが、暗殺計画の可否を問う議論として沸騰、現在に至っているとのことだ。ちなみに、この事を扱った映画は過去にも作られていて、今回はそのリメークという。

 

過去にそのようなことがあったのを知らなかった私は、話に興味をひかれ、一心に耳を傾けていた。すると、誰もが気づかないくらいのほんの一瞬、本が映しだされるそうで、その本はシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』だという。映画を見る時は、ぜひそれに気づいてほしいということで、ちょこっとだが、シーザーとブルータスについての説明がある。問題はそこからだ。

 

"シーザーが独裁者になったら民主主義の危機というのでブルータスが、「ブルータスお前もか」のあのブルータスが立ち上がった・・・"との言葉に、ングググ?となってしまったのだ。しかも、ハイドリヒが暗殺された後何が起こったか、それを、ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)亡き後の古代ローマがどうなったかに対比させているようなのだ。そして、そのところこそがこの映画の肝という。

 

それが更に、ングググを私の頭に引っかかったままにさせた。それでは先ず、ずっと昔に読んだきりの『ジュリアス・シーザー』を読むしかないなとなった。次いで、私のカエサルに対する理解が浅かったのかと、再度『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後[下]13』(塩野七生著・新潮文庫)を読み直してみた。

 

"カエサルの考えていたのは「帝政」という新体制であったが、それを「見たいと欲しない」彼らが見ていたのは、あくまでも初期のローマの政体であり、当時の他の君主国の政体でもあった「王政」であったからだ。・・・暗殺者たちの「善意」の行方を追っていくことにしたい。そうなると、プルタルコスの『列伝』のみに基づいたらしいシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』とは、相当に異なる展開になるのもいたしかたない。"(P・39)

 

とあるように、
シェークスピアの戯曲は、どれほど優れていようとあくまでも創作であって、歴史を丁寧に掘り起こして事実を示してくれているわけではないのだ。ましてこの戯曲は、題名こそシーザーだが、むしろアントニウスの演説が名高い。と言っても、この部分こそ、シェークスピアの創作だが。

 

ちなみに、「ブルータスお前もか」のブルータスとは、世に知られるマルクス・ブルータスではなく、今では、彼の従兄弟であり、カエサルの腹心の部下であったデキムス・ブルータスではないかと考える人が多いという。もちろん、真相は当のカエサル以外分からない。

 

こちらのブルータスは、カエサルの遺言状でも、"第一相続人オクタヴィアヌスが相続を辞退した場合の相続権は、デキムス・ブルータスに帰す。"(P・47〜8)とあるように、確かに信頼も厚い。自分の後継者にしてもよいと目していた人物が、暗殺者十四名のうちの一人であったなら、そりゃ「ブルータスお前もか」となるだろう。

 

ところで、ホロコーストに深く関わったとされるハイドリヒと、自分と戦った部族、あるいは自分と対立した相手にも寛容の精神で臨んだカエサルとでは、どうやったって同じ土俵には乗せられない。それなのに、ここが肝心なところという。ならば映画を観てみようと初日の第一回を目当てに映画館まで出向けば、満員であった。

 

すぐにでも確かめねばの気持ちが削がれ、結局映画は、盆休みが終わって、もう少し落ち着いてから観 ることにした。カエサルについて再考しているうちに、まあいいか、映画は映画、釈然とはしないが、監督のカエサルへの理解(本当はこの部分こそが肝心なのだが)を訊したところでしょうがないという気がしてきた。


それにしても、シェークスピアは偉大なばかりに罪作りだ。書かれていることを、史実と勘違いしてしまう人もきっとたくさんいるに違いない。アントニウスだって、ずいぶん立派な人物に思えてしまうではないか。

 

だが、軍事面でのアントニウスの能力を認めていたカエサルも、"戦時ではない平時の統治能力は認めなかったのである。"(P・52)というように、カエサル亡き後のアントニウスの行動をみていると、自分の後を託すに足る器ではないと見限ったことに納得がいく。

 

私だって、最近たまたまカエサルについて読んだばかりだったので、"シーザー・・・ブルータス・・・民主主義の危機"に、違和感を感じてしまったが、知らなければ何ということもなく、(ああそうなんだ)くらいで済ましていただろう。

 

とは言うものの、間違った解釈がそのまま流布されてゆくのはまずいのではないかと、『ローマ人の物語』を読んで以来カエサルびいきになっている私としては、また最初に戻ってしまう。つまるところ、僅かに知っている、あるいは知っているつもりのことを土台に話を進めてゆくのは、やっぱり危険だなと改めて考えさせられた次第。映画鑑賞はまだだけど、おかげでだいぶスッキリした。