照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

旅に出て、何をどう感じるかー自分なりの視点を持たなければ風景は違ってくる

『インパラの朝 ユーラシア・アフリカ大陸684日』(中村安希集英社文庫・2013年)は、解説文(P・285)によると、"青少年読書感想文コンクール高等学校の部の課題図書となったせいもあり、本書は、若い世代にも多く読まれているが、・・・この本について語るとき、学生の顔から透明の笑みがこぼれ、未来そのもののようにぱっと輝いた。"とある。

そうだろうなと思う。でも正直言うと、読み始めてしばらくは、読むのやめちゃおうかなと思っていたくらいだ。だが、「第6章 鼓動 東アフリカ」に入ってからが、俄然面白くなる。

そして、「第8章 血のぬくもり 西アフリカ」のニジェール[善意とプライド]では、途上国への支援ということについて、本当に深く考えさせられる。

"アフリカを歩けば歩くほど、論理と現実の乖離に気づき、違和感ばかりが強まっていた"(P・236)著者は、ニジェールで支援に関わっている人々と出会い、意見を交わすうちにいろいろなことが見えてくる。そのうちの一人、任期終了を間近に控えた青年海外協力隊員の女性が語る支援の形には、とりわけ共感を覚える。

著者自身、"「アフリカの貧困撲滅を! アフリカに支援と開発を!"というスローガンには、いかにそこに暮らす人々への視点が欠けているかを、実感していたからだ。

"貧困? それはまさに私自身が一番言おうとしていたことだ。・・・アフリカへ行って貧困と向き合い、現地の惨状を確認し、世界に現状を知らしめて共感を得ようと計画していた。・・・あてがはずれてしまった。なぜなら、予想していた貧困が思うように見つからなかったからだ。想像していたほど人々は不幸な顔をしていなかった。(P・246〜7)

それどころか、

"アフリカは教える場所ではなくて、教えてくれる場所だった。助けてあげる対象ではなく、助けてくれる人々だった。・・・・・
アフリカは私を小さな声で、小さなその手で助けてくれた。"(P・247〜8)と、多くの温かい手を差し伸べられて、助け合うということの根本的な意味に気づく。

そして、
"ODAとは関係がなく、NGOの登録すらもしていないような施設"であるウガンダの小さな孤児院兼学校の"小さく地味な活動"(P・247〜8)に、支援の本来あるべき姿を思う。それは、親しく話すようになった海外協力隊員の女性の意見とも重なる。

「第7章 内なる敵 南アフリカ」のマラウイ[隔たり]は、グサリと心をえぐられるような話だ。

新たに、相部屋に入室してきた若い欧米人女性の"「どうなっているの?」"に答え、部屋の説明をする。が、彼女は完全に著者を無視して、再度同じ問いを発する。すると、もう一人の欧米人同室者が同じ説明をし、やがて二人は楽しげに話し始める。
"私の声や存在は、彼女が見渡す世界の中に含まれていないらしかった。"(P・182)

旅に出て、何をどう感じるか。そこに、自分なりの視点を持たなければ風景は違ってくる。目の前の現実を、自分ならどのように受け止めるか。著者の旅に沿って、いろいろと問題の本質について考えさせられた。ハートフルな部分と裏表に重たい部分もあって、読む方もまた、素通りせずに向き合うタフさがあるかいと問われている気さえした。

"親しくもない同僚の一言で"インドを旅しようと思うなんて愉快だ

"「インドにでも行ってみたら」。親しくもない同僚の一言で、僕はインドへと旅立った。」"(『あの日、僕は旅に出た』(蔵前仁一幻冬舎文庫・H・28年・裏表紙より)

"親しくもない同僚の一言"で旅に出ようと思ったのかと、まず、裏表紙の内容紹介に、面白そうだなと思った。

"不潔で、物乞いがいっぱいいて、猛烈に暑い。それだけで普通は目的地から落選する。まるでインドのイメージとはかけ離れた無口なカトウくんが「でも、おもしろいんだよ」という。実に不思議だった。いったいなにがおもしろいのだろう。
そのとき、僕は初めてインドに興味を抱いた。(P・21)"

読み始めたら、"僕"の興味に、こちら側もますます引き込まれていく。カトウくんのキャラクターまで、想像してしまう。

裏表紙には続いて、

"・・・だが、この最低最悪の経験こそが、30年に及ぶ旅の始まりだった・・・。いい加減な決断で、世界中を放浪し、旅の出版社まで立ち上げた著者の怒濤の人生"

とあるように、その"怒濤の人生"がユーモラスに綴られているものだから、怒濤というよりは面白渦(こんな言葉は多分ないが)に、自ら巻き込まれていっているような感じさえする。

ミニコミ紙発行時代、人に頼む費用がない間は、奥様と二人、何でも自分たちの労働でこなしている辺りもほのぼのとしてくる。かなり価値観が合ったパートナーじゃないと、こうはいかないだろう。

小難しいことや偉そうなことなど何一つ言ってないのだが、読み終えると、この方の人生哲学がじんわりと伝わってくる。いい本だなと思う。

時にはメルヘンチックに

まさに春!という感じの昨日の朝。人々の装いも、前日の肌寒い雨の日とはガラリと変わって、その明るい色合いはまるで花のようで、(アッ、ここにも春が)という感じであった。

道行く人の誰もから、春が揺らめいていた。内実は、心に不安や困りごとを抱えているのかもしれないが、とりあえずそれは横へ置いておこうよとばかりに、太陽は、植物へも人へも建物へも、地上の全てに等しく日差しを降り注ぐ。光の煌めきが、いっとき暗い気分をも覆ってしまうから、皆んな輝いて見える。

この光を邪険にし出すのも、きっともうすぐだ。だから、この陽の輝きを喜びに感じられる今、全身で謳歌したい。歩いたり、バスに揺られたりして、街や人を眺めながら、そんなことを思っていた。春は、人をメルヘンチックにさせるようだ。

 

「人を動かすのは理屈でも言葉でもない」に共感ー垣根涼介『迷子の王様』

このところずっと、歴史本ばかり読んでいたらちょっと頭がくたびれたので、箸休め的に『迷子の王様ー君たちに明日はない5ー』(垣根涼介新潮文庫・H・28年)を読んだ。

このシリーズはこれでお終いということで、最終話には、これまでの全てが凝縮されている。あとがきには、その熱き思いが更に詳しく綴られていて、心に響く。

物語は、リストラ請負会社で10年間、面接官としてさまざまな立場の人たちと接してきた村上真介が、将来的には先細りになるであろうこのニッチな業界に見切りをつけ、会社を整理することを決めた社長の意向に従い、ついには自分もこの仕事から離れることになる。

次のステップに進む前に、真介は、かつて自分が担当した相手に会い行くことを決める。その4年ほど前から彼は、面接が終わった後でお礼のメールを送り、返事のあった人へは、年賀状も送っていた。賀状が返ってきた人とはその後もやり取りを続けていた。そして、仕事を辞めた後で改めてそれらの人々へ手紙を書き、会いたい旨を伝えた。

会ったうちの一人からは、逆に、リクルーティング役として自社に来ないかと誘われる。なぜ自分を?と驚いた真介が尋ねると、
"・・・自分がかつて担当した相手を会社を辞めた後で、しかも自腹を切ってまで訪ね歩いているような酔狂な人間が、一体どれくらいいると思う?"(P・281)と問われる。

"「人はさ、いくら理屈が通っていたとしても、言葉だけじゃ動かないよ。それを裏付ける気持ちを持つ相手に対してだけ、動くんじゃないかと僕は思う。"(P・283)

そして相手は、"「あなたが今、やっていることがそうだと思う」"と、真介のしていることは側から見れば何の益もなく、立場上、報われるよりは嫌な思いをすることが多いだろうと推測し、だが、一見無意味に見えるそのことこそが人の心を動かす力になると言う。

確かに人は、理屈や損得感情抜きに、相手に共感を覚えた時に心が動く。それも、表面だけのテクニックで言葉を駆使したところで上手くいかない。向き合う相手から醸し出される目に見えない何かを、もう一方の心がキャッチしてはじめてそれが可能だ。その見えない何か、いわばその人を包む雰囲気のようなものは、まさに日頃の自分の思いや行動から生まれるのだと思う。

この本の最初の章で、モデルになっている会社に懐かしさを覚え、かつ最終章での、"人は言葉だけでは・・・"という箇所で、当時私の所属していた部門の他に、総務や経理といった間接部門までひっくるめて引き取ってくれた社長を思い出していた。

当初は、部門丸ごとどころか、部もしくは課単位で切り売りされるかもしれないとの憶測さえあったのだが、この社長の決断のおかげで、私たちは露頭に迷わすにすんだ。無論、その後もリストラとは無関係だった。

その恩義から言うわけではないが、ズバズバ物言う人だったので本部主流から外された経歴を持つ社長は、私たちからみれば、この人のためならと思わせる雰囲気を持っていた。

本部は歴史にあぐらをかき、時代の流れも読めないイエスマンばかりで固められていたが、むしろこのような人を登用していれば、会社がなくなる事態にまで至らなかったかもしれない。だいいち、社員の士気が違ったはずだ。

当時、会社が無くなるのは青天の霹靂で激しく動揺したが、今になれば、あの社長の下で仕事ができたのは幸いであった。だが非常に残念なことに、新会社としてスタートを切った3年後、病気で亡くなられた。その時は、(多分)全社員が気落ちしたと思う。

文中での、「人を動かすのは理屈でも言葉でもない」に、かつてそれを示してくれた人を思い出し、まったくその通りと改めて思った次第。

この作者の本は、どれもあっさり読めるが、深く考えさせられることがたっぷりだ。それでいて、教訓臭さがないところが特に良い。

 

雨の日にぴったりの映画ー『マイ ビューティフル ガーデン』

昨日は雨。こんな日は映画日和と、シネスイッチ銀座で『マイ ビューティフル ガーデン』を観てきた。雨の日は電車が混雑するので、ターミナル駅まではバスで出かけた。

バスから外を眺めていると、イチョウが芽吹きはじめている。〈ワシは浮かれたような春の賑わいには加わらんのだよ〉とばかりに、空に向かってスクッと立つその武骨な姿を目にするたび、葉が出るのはもう少し先かなと思っていたのだが、予想よりずっと早かった。

ヨーロッパには、「四月の雨は五月の花を咲かせる」という諺があるそうだが、雨は植物たちにとっては恵みだ。たまたま映画の中でも、主人公ベラの隣に住む花をこよなく愛する隣人が、植物にとって雨がいかに大事かを説いていた。

実はベラは、植物が大の苦手で、庭付きアパートに住んでいながらまったく手入れをしていない。そのため、ある日、退去命令が出てしまう。猶予期間は1ヶ月だ。仕方なしに、荒れ放題の庭を何とかしようと取り組み始める。

気難し屋の老人である隣家の男性とは、元々没交渉であったが、ちょっとしたことがきっかけで言葉を交わすようになる。といっても、最初はハートフルどころか、むしろその逆だ。だがやがて、庭づくりのアドヴァイスもしてくれるまでになる。

そこにベラの恋話も絡んだりして・・・と、フワフワっとした甘いお菓子のようなストーリーは、肌寒い雨の日にはまさにピッタリであった。おとぎ話もたまには良いなと、雲の上を歩いている気分のまま映画館を後にした。

 

「最後の晩餐に何を食べるか」ー私だったら塩むすびが良いな

「最後の晩餐に何を食べるか」、だいぶ前、新聞か雑誌で、著名な人にインタビューした記事を読んだことがあった。もし自分なら何にするか、当時はいろいろ浮かんできて、とても絞りきれないなと思った。でも今なら、塩むすびが良いと断言できる。

先月、奈良に滞在した折、食べ過ぎに疲れが重なって2度ほど胃の不調を招いた。夜中に、自分で至室と呼ばれるツボを押しながら、その日食べた物を思い起こし、何で食べちゃったんだろうと激しく後悔していた。

奈良では、ホテル暮らしのため外食だったのだが、一人前の量が私には多すぎる。食べて美味しいと、もう一口という欲に、残したら悪いなとの思いも重なって、つい無理してでも胃におさめてしまう。その挙句、数時間後にそのツケが回ってくる。

旅先では腹八分目が鉄則なのにと、嘆いてみても後の祭りだ。仕方がないので、翌日からの参考にと、自分の胃に優しい食べ物は何かを考え始める。あれこれ浮かべても、なかなかピタッとくるものがない。(世の中にこれほど食べ物が溢れているというのにまったく)と、とりわけスイーツなどは呪いたい気分にもなった。そんな中でふと、かつてコンビニで買った塩むすびが浮かんだ。

これだこれだ。私が人生最後に食べるとしたら、絶対塩むすびだと思った。「晩餐」というには、かなり見劣り感が強いが、小ぶりの塩むすびをじっくり噛んで飲み込むところを想像すると、至福という言葉が浮かぶ。身体のすみずみまで、しっかりと滋養が行き渡るイメージが湧く。最後だからこそ、このように生命を感じさせる物が良い。

お米にも塩にも、手作りか否かにもこだわりはなく、目の前に用意された塩むすびを、美味しいと思いながら噛み締めることができら最高で、私にとっての最後の晩餐に相応しいと思った次第。

天平時代の女性に想いを巡らせるー光明皇后の容姿に俄然興味を覚えて

『奈良の都』での、光明皇后についての記述が、私にはとても新鮮であった。『古寺巡礼』(和辻哲郎)では、カラ風呂での光明皇后施浴の伝説及び法華寺の本尊十一面観音のモデルと言われていることについての考察にページを割いている。その文章からの印象か、何となく、お綺麗な方であったのだろうと思い込んでいた。

だが、"「光明子の人となり」"には、

"聖武天皇の人柄については一言もふれていない『続日本紀』も、光明皇后については、「幼にして聡慧(そうけい)、早(つと)に声誉(せいよ)を播(ほどこ)せり」とか、・・・、あるいは「仁慈にして、志、物を救うにあり」と記している。聡慧、つまり頭がいいとはいっているが、美人だとは一言もいっていない。美人だったという伝説は、法華寺に縁が深く、じじつ美人だった嵯峨天皇の妻の檀林皇后と混同されて生まれたのだろう。法華寺の十一面観音像も檀林皇后と同時代の作品である。"(『日本の歴史3 ー奈良の都』(青木和夫・中公文庫・1973年・P・325)

とあるではないか。本の中で、この時代の他の女性に対しては容姿について言及していないのに、光明皇后に関しては、"美人だとは一言もいっていない"と強調している。

アララ、そうだったのという感じだ。もっとも、当時の美人像を思い浮かべるたび、現代に生きる私の感覚からすれば、美の基準にかなり疑問が残る。だから、美人かそうでないかは大差ないような気もする。

だが、当時のように、1日2食、しかも、量も十分ではない粗末な食事では、全般的に男女共に痩せていたに違いない。そんな中で、ふっくらとしているというのは、やはり美の要素だったのかもしれない。身体に栄養がいき渡っていれば、鳥毛立女屏風に描かれた女性のように、髪も(多分)黒々として豊かなはずだ。

しかし、実際、光明皇后はどのようであったのか。"天平の時代の代表的婦人の肖像を持たないことはわれわれの不幸である。そのためにわれわれは天平の女に対して極端に同情のない観察と著しく理想化の加わった観察との間を彷徨しなければならぬ。"(『古寺巡礼』・青空文庫版より)

まさにこの言葉通り、頭の中であれこれその姿を思い巡らせてしまう。私の場合、"極端に同情のない観察"よりは、"聡慧"からの連想で、知的な美しさを感じさせる方であったかもしれないと、やや"理想化の加わった観察"へと傾く。

そして、これまでさほど関心が向かなかった当時の女性の容姿についても、俄然興味が湧いてくる。タイムマシンで、奈良にひとっ飛びできたら面白いのに。でも、物凄くびっくりするだろうな。やはり、空想しているくらいが楽しいのかもしれない。