自分たちの暮らす街について考えさせられる本ー『ボローニャ紀行』井上ひさし
『ボローニャ紀行』(井上ひさし著・文藝春秋・2008年)を、単なる旅行記のつもりで読み始めたらそれ以上の面白さだ。イタリア全般についての考察の深さに、こちらもずんずん入り込んでゆく。
先月下旬、ヤマザキマリさんの講演を聞きに行った際、
"イタリアでは、政治的な話から何から、誰もが自分の意見を口にするのが当たり前で、むしろ、意見を持っていないと馬鹿にされる。17歳で初めてフィレンツェに行った時、まずそのことに驚いた。発言する時、場の空気読む人なんて誰もいない。"(講演要約)、
とおっしゃっていたが、この本で大学の単位取得試験について知り、もともとそういう下地がある国なのかと納得した。
本の中では、佐藤一子さんの『イタリア入門』(三省堂選書)の「競争のない学校とイタリア人の討論好き」から次のように引用されている。
"さながら、歴史学の討論会である。なるほど、イタリア人はこういうふうに、小さいころから討論しながら自分の意見・主張をまとめる習慣を身につけるのかと、たいへん考えさせられる光景であった。"(P・34)
これは、佐藤さんがお世話になっている家で、歴史学科で学んでいる息子が教官役の母親(高校教師)を相手に、質疑応答を練習している光景を目にした時のことだ。そこへ遊びにきた何人かの友人が加わって、さらに続けられたという。
このエピソードは、イタリアを知るうえでの伏線のようなもので、かなりの部分が、ボローニャ方式と呼ばれる都市再生について割かれている。
著者がトレヴィーゾに滞在した折、人々が日常の中に楽しみや人生のよろこびを見つけているのに気づく。そして、"日常の中に人生を見つけるには、みんなでそれを叶えてくれる街を作らねばならない。"(P・120)と考える。つまり、自分たちにとって住みよい街を、自分たちの力で作りあげてゆくことの重要さを知る。
もちろん日本の現状を踏まえて書かれたのだと思うが、非常に示唆に富んでいる。但し、この紀行は2004年のことで、"ベルルスコーニの五年間で、イタリアは地獄に近い国になりました。(P・218)と、その国の人が言うように、当時既に経済格差社会が嘆かれる状況であった。
そこに暮らしているわけではないので詳しくは分からないが、さまざまな問題はさらに膨らみ、積み増しているようにも思える。だからよい面ばかりを手放しで褒めるわけにもいかないが、
"問題を乗り越える手を持つ国と、まだ持たない国がある。その手があるだけボローニャはいいな、とおもうのはやはり美しい誤解でしょうか。"(P・221〜222)に、わが国を思う。
この紀行から12年、イタリアばかりか、どの国でも問題は山積している。この国(日本)で、問題を乗り越える方式を誰か(国)が示してくれると思うことこそが、"美しい誤解"だと、今、本当によく分かる。結局、自分たち一人ひとりが考えてゆくしかない。
それにしても、私たちはいったい、どこへ向かいたいのだろう。