価値観の違いは生き方の問題ーどちらが良いとか悪いとかではない
前回に引き続き、『周平独言』(藤沢周平・中公文庫)から引用させて頂く。
「書斎のことなど」の章に、
"・・・私は所有する物は少なければ少ないほどいいと考えているのである。物をふやさず、むしろ少しづつ減らし、生きている痕跡をだんだんにけしながら、やがてふっと消えるように生涯を終えることが出来たらしあわせだろうと時々夢想する。"(P・315〜316)
そしてそれを、"むろんこれは生き方という問題である"と位置づけ、他者が自分と価値観が違うことについては、"どちらがいいとかわるいとかいうことではない。"といい、他者が、"一尾百万円もする鯉を飼って、そのことに喜びを感じるのもひとつの生き方である。"という。まったくその通りだ。
価値観は人それぞれ、それは人に対して見せびらかすようなことではなく、自分が心地良ければそれでいい。いろいろな主義主張があっていいのだが、例えば、ミニマリストにしろまたその逆にしろ、こだわりの強いタイプに時々違和感を覚えるのは、我こそが素晴らしいという臭いが強すぎるからだ。
はじめはちょっといいなと思って眺めていても、次第に全体から立ち昇る窮屈さに、自分はもっと柔軟にいきたいと考えてしまう。それほど主義が強くないと思われる人でも、物事はこうあるべしと、案外みんな自分で自分を縛りがちだ。人と人がぶつかる根底には、多分にそれがあるように思う。
だから、藤沢周平さんのような、構えない姿勢に惹かれる。そして、もっとゆるやかでいいんだよ、人間なんだものという思いが頭をかすめる。
人にはその人なりの考え方、やり方があると本心から認め、受け入れられるようになったら、誰もが、もっととんがらずに人と接することができるのではないだろうか。
所詮、その人自身の生き方の問題で、そこには、良いも悪いもないのだ。自分の周りの誰かに腹立ちを覚えたら、ちょっとそれを思い出してみるといい。フッと肩から力が抜けるだろう。