照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

心に響く「藤原の桜」ー志村ふくみ『色を奏でる』より

志村ふくみさんの『色を奏でる』(ちくま文庫)は、ご自身が一枚の布として織りだされているかのような、とても味わい深い本だ。とりわけ印象深いのが、次の一章だ。

「藤原の桜」(P・116~122)は、大岡信さんの「言葉の力」という文章が教科書にのったことがきっかけで、藤原中学(群馬県)の生徒さんたちと一緒に桜を染める話だ。

"桜の液につけられ、桜の灰汁で媒染された糸は、淡いが、匂い立つような桜色になるはずだった。ところが液からひき揚げた糸は、赤味を帯びた黄色だった。"
落胆したような気配の中で一人の生徒から、「本当の桜はどんな色ですか」と聞かれ、とっさに志村さんは、"「これが桜の色です。藤原の桜です」"と答える。

が、"京都の小倉山の麓の桜は桜色だったが、藤原の雪の中の桜は黄色なのだ。私は生徒たちの目の前でその事実に直面して、自分の思い上がりを打ちのめされたようだった。"

しかし、その後生徒たちからの感想の手紙を読み、その反応の素晴らしさに、彼らの感受性を、"透明な叡智のようなかがやき"と受け止める。

この箇所を読んでいるうちに、そこには、お互いに反応し合って染めだされた、もう一つの見えない糸が浮かんでくる。その場に立ち合った生徒や教師たちの思いが、それぞれの数だけの美しい糸となってきらめいている。

時期によるのはもちろん、地域によっても、桜色が異なるというのは、なかなか興味深い。藤原中学の生徒さんが言うように、

"「私が一番心に残ったことは、同じ桜でやっても同じ色がでない。それで、これが本当の色なんだっていうのがないことです。藤原の桜は黄色です。これが藤原の桜の色だと思うと、とても嬉しいです。・・・色は私たちに何かを語りかけてくれます。だからそれが色の主張だと思うのです。・・・」"

これって、人も同じだなとふと感じた。みんな少しづつ色が違う。それぞれに主張がある。

"「樹々が厳しい自然のなかで全精力を傾けて芽吹きの準備をしている。その生命と、色と香りをいただいてしまった私たちは、どうあっても〈植物の側の言い分〉を聞かなければいけない。・・・こちら側にそれを受けとめる素地がなければ色は命を失うのです、という言葉が今はじめて切実にわかったような気がします。」"

若き教師は、〈植物の側の言い分〉を生徒に代えて、"言葉にならない言葉をきいてあげただろうか"と、自分に問う。

桜の精の如くなるはずだった糸が、黄色く染まって一瞬落胆が広がったが、そこには、期待した色を目にした時以上の、大きな気づきがあったことが窺える。そして、志村さんだからこそ、それを引き出せたようにも思う。