照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

500年以上も前にパッケージツアーを催行していたとは!〜『水の都の物語』

念願の聖地巡礼を果たしたミラノ公国の官吏サント・ブラスカが、帰国から三ヵ月後に出版した旅行記を中心に、当時のヴェネツィアの観光政策を絡めた「第九話 聖地巡礼パック旅行」がとても興味深い。"(『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年 4』塩野七生新潮文庫・P・149~)

 

"ヴェネツィアは商人の国である。商人は営利が期待できるものならばなんであれ、それに関心を持つ。聖地巡礼は、異教徒に妨害される危険や長い旅路の不安がありながらも、西欧キリスト教徒の夢であり続けた。しかも、ヴェネツィアは船を持っている。彼らは、聖地巡礼を、営利事業として立派に成り立つとみたのであった。"(P・153)

 

サント・ブラスカが旅したのが1480年というから500年以上も前のことなのに、"ヴェネツィア人が国をあげて積極的に取り組んだ観光事業"は、現代でも真似をしたらいいのではと思うほど良く整備されていて、商売だからと分かってはいても、まさに、これぞ〈おもてなし〉の精神ではないかとさえ感じられる。

 

何しろ、遠くはイギリスやドイツ、フランスからの巡礼たちがヴェネツィアに到着してから出航するまでのお世話ぶりが、至れり尽くせりなのだ。

 

"早朝から日没まで、・・・ヴェネツィアを訪れる人がまず第一歩をしるす場所に、二人ずつ組んだ男たちのパトロールする姿が見られる。"(P・161)

 

ロマーリオと呼ばれる彼らは、ヴェネツィア共和国の国家公務員で、二人で、ドイツ後、フランス語、英語の三ヵ国を話せるように組まれていたという。"巡礼を見かけると「何かお役に立つことがありますか?」と声をかけ"、先ずは、巡礼の所持金に応じた宿の紹介をしてくれる。たとえ安い宿でも、各地区の衛生員が、一週間ごとに、敷布から台所まで検査する撤退ぶりなので、安心して宿泊できたそうだ。

 

また、翌朝には、旅の必需品の買い物に付き合ってくれるが、これは何も、トロマーリオたちが商店主と結託して、自分たちの懐を潤すためではない。"国家公務員の汚職収賄に対しては、死刑が、ヴェネツィア共和国の法であった。"(P・167)と、行政の目が誠に厳しいので、これは個人的な好意からなどではなく、あくまで職務であった。

 

商店主にしても、不良品や法外の値をつければ、巡礼専用の裁判所に訴えられてしまうので、旅の準備について何も知らない巡礼たちが、騙されたり、暴利を貪られることはなかった。

 

その後は、乗船までのほぼ一ヶ月間、教会や僧院での聖遺物巡り、役人の案内付きでの造船所、元首官邸見学などに加え、各種祭への参加で、巡礼たちは退屈する間も無く過ごしたという。

 

しかしこれって、本当に凄いシステムだなと思う。巡礼で出るといっても、半年もしくは地域によっては一年もかかるし、お金もかかるので、誰もがおいそれと腰をあげるわけにはいかない。人数が少なかったからこのように手厚くできたのかもしれないが、観光事業として成立したからには、当時の人口比からすればやはりそれなりの数の旅行者がいたに違いない。

 

でも現代のように、インターネットで宿泊予約ができるわけでもなく、自分の懐具合に応じた宿を見つけようにも、価格を記したガイドブックだって当然ながらない。そこへ、自分と同じ言葉を話すトロマーリオが現れればホッとする。きっと、怪しい者ではないことを示す身分証のような物も持っていたのかもしれない。

 

また買い物にしても、船旅も初めてなら、イェルサレムの気候及びその他の知識についても皆無な巡礼者にとっては、教えてくれる人がいなければ、一体何を用意すればいいのか見当もつかなかっただろう。買った品物は、出航の日まで店で預かってくれたうえ、当日船まで届けてくれるのだから、まったく有り難い限りだ。荷物の心配もせず、身軽に、祭やあちこちの見物に勤しんでいられる。

 

もちろん航海中も、船には"武装兵や医者の乗船が義務づけ"られていたりと、無事にヴェネツィアに戻るまでの配慮は怠りない。もし、巡礼が旅の途中で死ぬようにことがあれば、それに対する規定もあって、死者の遺物と共に、残日数に応じた旅費の返還もなされたそうだ。それには、「巡礼事業法」の存在が大きかったという。

 

"聖地巡礼という、中世における最大の観光事業の王座を、二百年もの間、守り抜いた理由である。ライヴァルのマルセーユは、結局、完全に水をあけられたままで終わる。"(P・172)

 

というように、フランス船にはこのような法がなかったため、フランスから乗船する方が便利な地域ばかりか、当のフランス人でさえも、わざわざアルプスを超え、北イタリアを横断する手間をかけてまでしてヴェネツィアにやってきたそうだ。

 

"巡礼者の帰国談が、当時では最高の宣伝であることを熟知していた、ヴェネツィア式商法の成果であったと思うしかない。"(P・173)

 

つまり、口コミが有効だということをよく分かっていたということか。巡礼者たちだって生命を預けるわけだから、自分たちの旅行を、より信頼できる業者にお願いしたいのはもっともなことだ。

 

それにしても、どうすれば商売として上手くゆくか、人の心理もよく研究していると感心するばかりだ。しかもそれは客ばかりか、対応する側にも当てはまる。国家公務員の汚職収賄に対する罰が死刑とはこれまたびっくりだが、ここまで厳しくしなかったら、人がどう動くかがよく分かっているとしか思えない。

 

この項以外にも、人の良識に委ねることはしないで、違反者には厳罰で臨む的記述が何度かでてくる。自分だけを利するような行為が発覚したら、大概は、凄まじい額の罰金が科せられたりする。共同体よりも個を優先させるようなことには、すぐに"行政指導"が入ったようだ。

 

人の良心という当てにならないものを徹底して排除したのが、一千年という永きにわたってヴェネツィア共和国が続いた一因にもなっているのかなとも思う。

 

"11世紀の昔からすでに、西欧では有数の観光国であった"(『海の都の物語 6 』P・96)というヴェネツィアは、現在でも世界中から人を集め続けているが、自前の物は塩と魚しかなかったというヴェネツィア人の、知恵と才覚によって築かれた過去の大いなる富が、現代をも尚潤し続けているということか。

 

結局、国としては消滅してしまったが、それでも、ヴェネツィアはまったく大したものだと感心しきりだ。そして、全6巻読み終えた今、改めてこの水の都を訪ねてみたくなる。

 

* ちなみに、18世紀になってから観光がどのように変化していったかは、「第十三話 ヴィヴァルディの世紀」(『海の都の物語 6 』P・95〜)に書かれている。