照る葉の森から

旅や日常での出会いを、スケッチするように綴ります。それは絵であり人であり、etc・・・。その時々で心に残った事を、私の一枚として切り取ります。

かつて学問と文化の中心地だったトンブクトゥ〜アフリカへの認識が変わる本

アルカイダから古文書を守った図書館員』(ジョシュア・ハマー著・横山あゆみ訳・紀伊国屋書店・2017年)が、非常に読み応えがあって面白かった。旅行から帰った次男が私にくれた本だが、多分、自分では巡り合えなかった一冊だ。

 

何といっても、500年以上も前に、トンブクトゥ(マリ共和国)が学問の都であり、大学まであったことを知った時は、まさに目を見開かされる思いで、アフリカへの認識がガラリと変わった。また、少し前に読んだ本で、ずっと心に引っかかっていたことがあったのだが、それもこの本を読んで一気に晴れた思いだ。

 

ストーリーを簡単に追うと、

 

文学者でハーバード大学教授のヘンリー・ルイス・ゲイツは9歳の時(1960年)、アメリカの古い漫画、ロバート・リブレー作の『世界奇譚集ーウソのような本当の話』のひとつに目を奪われた。

 

"それは地元の地方紙に載ったひとコマ漫画で、長い上着を着てターバンを巻いた男たちが本を抱え、一六世紀のトンブクトゥの広い大学図書館を歩くさまを描いていた。幼いゲイツは、アフリカが未開で野蛮な地であるという伝統的な見方のもとで育っていたため、この漫画を目にして雷に打たれたようになる。
・・・西洋の偉大な歴史学者が「真実」として伝え、長らく受け入れられてきたアフリカ人の姿。それは新聞の漫画とは正反対のものだった。(P・73~74)

 

それから37年後、映像製作者でもあるゲイツは、アフリカ史のドキュメンタリーを撮るため訪れたトンブクトゥで、たまたま通訳兼ガイドの友人であるアブデル・カデル・ハイダラに出会う。

 

天文学書などの古文書を見せられ
"「ここにある本を黒人が書いたんですか?」ゲイツは目を丸くした。"
それは、
"「子供のころ、『アフリカ人は読み書きができず、本ももっていない』と学校で教わったものです」(P・76~77)
というゲイツからすれば、まさに信じられない思いであった。

 

結局、これを機に、ハイダラの私設図書館を作る計画が進み出す。それまでハイダラは、ムハマド・ババ研究所の調査官として働いていたのだが、その仕事に一区切りつけ、父の遺言により自分に管理を託されていた、ハイダラ家に伝わる膨大な古文書の整理・保存に着手したいと考えていた。

 

だが、資金集めに苦慮、"100か所以上の財団に助成金の申請を断られ、もはや万策尽きていた。"という。それがゲイツの後押しのおかげで、アンドリュー・W・メロン財団から助成金が交付されたのだ。
やがて、"マンマ・ハイダラ記念図書館は、世界の最先端をいく古文書保存施設へと急速に成長をとげ、2010年にはトンブクトゥにおける文化財復興の象徴となりつつあった。"(P・159)

 

しかし、マリ北部がアルカイダによって支配されるようになり、ついにはトンブクトゥも占領されてしまう。アルカイダに大事な古文書が破壊されるのを恐れたハイダラは、密かに、トンブクトゥ中の図書館にある古文書およそ38万冊すべてを、マリの首都バマコへ移すことを計画する。

 

この本にはその実行過程が、マリにおけるアルカイダの台頭状況とともに詳しく記されている。それにより、2013年にアルジェリア天然ガス精製プラントで日揮社員10人が巻き込まれた事件にも、そういうことだったのかと、今さらながらではあるが背景が非常によく理解できた。


ところで、ゲイツが数々の古文書に驚いたのも無理がない。"一四世紀後半になると、トンブクトゥは地域における学問と文化の中心地として台頭する。"(P・28)とあるが、西洋では、それらのことがまったく知られていなかったため、長い間、アフリカには芸術も学問もないと思われており、黒人は劣った存在と見られていたようだ。

 

"スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームは、1754年のエッセイ「国民性について」の中でこういいきっている。「私には、黒人が生まれつき白人よりも劣っているように思えてならない。"(P・74)
には、ただびっくりしてしまうが、このほかにも、ドイツの哲学者カントやヘーゲルなど"啓蒙思想とそれにつらなる哲学者たちの言葉"として、同じような意見を紹介している。

 

ところで、『クアトロ・ラガッツィ』(若桑みどり著・集英社・2003年)の中でも、宣教師たちが日本人の肌の色にこだわっていた箇所があったのだが、結局、それらも根は同じでことあったと解る。

 

宣教師たちにとってなぜ肌の色が重要かというと、

 "南アメリカやアフリカで色の濃い人々を「発見」したとき、カトリック教会は彼らに布教することができるのかどうか真剣に議論した。"(P・125)

とあるように、当時(500年前)は、黒人には布教しても意味がないと考えられていたらしい。"魂の救済は人に対してであって"と、つまり人間かどうかという、唖然とさせられるような観点から論じられていたようだ。

 

日本人の場合も、宣教師それぞれによって、肌の色の評価が分かれていたという。日本人を黒人と言った準管区長のポルトガルカブレラは、"日本人には知性がなく精神もないから教育してもしかたがない野蛮人"と評しており、
巡察師ヴァリャニーノの方は、
"ことあるごとに日本人の肌の白さを強調していて・・・「日本人はすべてのヨーロッパ人と同様に色白く、高貴、聡明であり、徳操と学問の能力があり」というふうに、日本人の肌の白さを、ヨーロッパ人と同じ知性の外見的証拠としてあげている。"(P・124)
ということだ。

 

ちなみに、最初に日本へやって来たザビエルも、"「日本人は白い」と報告している"という。そこには、当時"知性の外見的証拠"を、肌の色で判断したということが窺える。

 

ところで、日本からはるばるヨーロッパまで渡った四人の少年たちは、長い旅の途上で日焼けして、報告書には、"「変色」した"と書かれていたという。それに対し著者は、色の白い日本人を見せたかった人たちにとっては、さぞ残念だったろうと書いておられる。このように、時折はさまれる若桑節が何とも愉快だ。

 

それにしても、もし、ヴァリャニーノをはじめ当時のヨーロッパの知識人たちが、自分たちとほぼ同時代のアフリカの人たちが、医学や天文学をはじめとする様々な知識と知恵が詰まった装飾も美しい本を持ち、しかも大学まであったことを知ったなら、どのような反応をしたであろうか。

 

殊に、知識人であり、観察力、洞察力ともに優れていたヴァリャニーノに、ぜひとも聞いてみたい。そして、肌の白さと知性には相関関係などないことに気づいてもらいたかった。もちろん、その後に現れた"啓蒙思想とそれにつらなる哲学者たち"も、アフリカにおける文化の高さを知れば、自らの言葉を撤回せざるを得なかっただろう。

 

などと、この本の趣旨からはやや逸れたことを思いながら読み終えた。ともあれ、読書の秋にぜひどうぞ!